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始皇帝は「史記」の通り死んだのか

多くの謎に包まれている秦の始皇帝の死。前回は兵馬俑について考察してみましたが、今回は「死」そのものに迫ってみたいと思います。(死に関する記載が多いので、苦手な方はここでご退散ください)

皆さんは始皇帝の死亡理由をご存知でしょうか?ウィキペディア日本語版では、趙高と李斯による「毒殺説」の可能性が高いと言われていますが、史記では平原津という場所で病にかかり、体調が悪化して沙丘平台というところで亡くなったとされています。

趙高は始皇帝の死を隠し、遺体の死臭を隠すために30kgもの鮑魚(塩漬けにして発酵させた魚介類)を積み、咸陽まで戻ったとされています。ただ、沙丘平台から咸陽に直行すると異変に気づかれてしまうため、もともと巡幸予定だったルートで咸陽に戻るという七面倒臭いことをしたようです。

ここで大きな疑問が1つ湧いてますでしょうか?

果たして始皇帝の死体は始皇帝陵の地下深くに、生前に近い様子で保存されているのでしょうか?

意味が分からない方もいると思いますので、まず始皇帝が死んだ後に趙高が首都・咸陽まで辿ったルートを、見てみましょう。

(鶴間和幸著「人間・始皇帝」P169より引用)

これをベースに、現代版の地図上にざっくり落としてみます。

①沙丘平台…現在の河北省邢台市广宗県
②恒山郡…現在の河北省石家荘市(諱を避けて常山郡と改称)
③雁門郡…現在の山西省忻州市代県・雁門関
④雲中郡…現在の内モンゴル自治区フフホト市
⑤九原郡…内モンゴル自治区バヤンノール市
⑥上郡…現在の中国陕西绥德県
⑦雲陽(林光宮)…現在の陝西省咸陽市淳化県(甘泉宮)
⑧咸陽…現在の陜西省咸陽市

経由地はざっと上記の通りです。③は少し内陸に寄り過ぎてしまうこと、⑤はかなり内モンゴル側に入ってしまうことから、省略しました。おおむね、鶴間先生のルートと合致したと思います。

全行程、1,765kmです。これを急使の馬(変え馬を乗り継ぐ形)で走破する場合でも、50~80km/日となり、22日~35日かかります。

ましてや、そんな早馬で巡幸しているとなれば必ず怪しまれるため、鮑魚を積んだ馬車を伴うスピードで考えれば、35日以上かかることは明白でしょう。宿営しないのも変なので、「通常の巡幸」スピードで咸陽に向かったと考えるべきでしょう。通常の巡幸スピードだと、早馬より距離は稼げると思いますので、ここでは「35日かかった」ということにします。

となると、最大の疑問は「始皇帝の遺体は腐敗しきってしまっているのでは?」ということです。

史記では、始皇帝が死んだのは七月丙寅(へいいん)としていますが、この年は閏年で7月に丙寅はありません(史記は所々おかしい)。よって8月丙寅=8月21日だと思われます。これは鶴間先生の見解ですが、私も賛成です。

驪山に埋葬したのは史記によると9月。

ということは、夏の暑い8月21日に死んで、暑い中を馬車で遺体が運ばれ、仮に35日経過したとすると今の暦だと9月25日に咸陽に到着していることになります。まとめます。

<紀元前210年 始皇帝の死去と埋葬>

・8月21日 始皇帝、沙丘平台にて死去(50歳)
・馬車での移動距離 35日(想定)
・9月25日 咸陽に到着(予想)~即埋葬?

※「史記」に記載の七月丙寅は八月丙寅の間違い

私は専門家ではないので分かりませんが、炎天下の中、遺体を馬車で運ぶと腐乱すると思います。実際にすぐに腐臭がしていたことになっていますので、それを30日以上も隠しながら腐乱したままにするというのは、恐らく遺体は原型を止めていないと思われるのです。

ここで、「始皇帝は水銀を飲んでいたので、水銀の防腐効果で遺体は腐っていない」という方がいるかもしれませんが、仮にそうだとすると腐臭はしないはずなのです。

その状態が1か月続く。

仮に史記に記載の通り7月死去だとすると、9月に埋葬なのでもっと日数が経過していることになります。やはり七月丙寅は8月21日と見るべきでしょうね。そうすると、咸陽までの35日走破説は現実味があります。

個人的にはそれでも「速い」と感じますが。

ここをさらに推測するには、実際に始皇帝の遺体がどのような状況で埋葬されているかを見ることが重要になってきます。

仮に、しっかりと生前に近い状態で埋葬されている場合、「事前に趙高が遺体防腐処理を準備しておいて、始皇帝を毒殺した」という可能性もゼロではなくなります。

しかし、残念ながら私が生きている間に始皇帝陵が発掘されることはないと思います。まだまだ他の発掘作業が続いていることと、地下30mも掘り下げた空間に埋葬されている遺体を外気に触れさせてしまうと、色落ちのみならず一気に保存状態が失われてしまう可能性が高いからです。

状態が良ければ、馬王堆遺跡の貴婦人のように、ほぼ生前の状態で埋葬されている可能性もあります。なぜなら馬王堆の貴婦人は前漢(秦のすぐ後の時代)のものであり、埋葬技術が高かったと思われるからです。

始皇帝の遺体は水銀の海と川に囲まれているようなので、秦の時代には防腐技術が確立されていたと思います。

私の中ではまだ結論は出せていませんが、「趙正書」と「史記」は始皇帝の死に関する記載が異なっていますので、下記を今後の妄想ポイントとして挙げておきたいと思います。

・死んだ日と「火星のアンタレス大接近日」が偶然重なっている詳述
・急な病気
・死や暗殺に「趙」の人や土地が絡んでくること
・「直道」を初めて通った1か月以上に及ぶ死後の旅
・早すぎる埋葬準備(死を隠し咸陽到着後に着手?)

本日もお読み頂きありがとうございました。

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