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火国(姬国)と熊襲(熊楚)

世界の歴史まっぷさんから、春秋時代の勢力図を拝借しました。

春秋戦国時代

上記の通り、呉のエリアは周(姓:姬)の諸侯=呉太伯一族の統治エリアとなります。これは下記の記事で書いたものと合致します。

次に楚(姓:熊)ですが、結果的に妄想したものがほぼ正しいと断定しても良いかもしれないところまで来ています。

この2つの氏族の渡来を図解すると、こんな感じでしょう。朝鮮半島を経由せず、海を渡って直接渡来しているはずです。

渡来人ルート

呉の民(姬)が造った国が火国で、楚の民(熊)が造った国が熊襲だった。渡来のタイミングははっきりしませんが、仮に滅亡がきっかけだとすれば呉の民は紀元前473年、楚の滅亡が紀元前223年です。呉の民のほうが渡来が早かった可能性がありますね。

1点、稲作を伝えた民については、下記の考察記事から呉の民もしくは徐福(呂不韋)の可能性が大で、呂不韋が有力だと思ってきましたが、訂正が必要かもしれません。

現時点では、やはり姫飯法(ひめいいほう)を日本に伝えた呉の民が稲作を日本に持ち込んだ可能性を信じたいと思います。

というのも、火国があった場所に吉野ヶ里遺跡がありまして、そこで稲作の痕跡が存在するからです。

仮に徐福が、人口5,400人程度だった吉野ヶ里遺跡の地を侵攻したとなれば、また話は変わってくるのですが…童含めた3,000人が戦闘員ではなかったので、史書に創作が無ければ普通に考えて呉の民なのかなと。

こちらのブログでは様々な妄想をしてきましたが、「行き過ぎた」妄想は実は嫌いです。時に行き過ぎてしまうのですが(汗)、このように妄想と現実を符号させて行った時に、妄想が間違いであればそこで突き進まずに訂正していきたいと考えています。

まだまだ奥深いですね。徐福が日本に伝えた文化の功績については否定せず、まだまだ考察していきたいと思います。


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