姫飯法は本当は姬飯法だった
今回は、姫飯法という米の炊き方についての考察です。事前に、過去の記事をご覧頂くとスムーズにお読み頂けます。
稲作の起源は、紀元前7,000~6,000年頃の中国まで遡ることになります。それからだいぶだった紀元前3世紀頃に、日本に伝わりました。諸説ありますが、米の炊き方から考えて、長江流域から直接伝わったと思われます。
もう一点、長江流域から直接伝わった可能性を書いてみます。これはまだ誰も考えたことの無い説だと思います。
長江流域で稲作をしていたと思われるのは…呉太伯以降の周王族一族。
ご存じの方も多いと思いますが、周王族の姓は「姬(き)」です。これは妄想ですが、姬を姓として持つ呉太伯らが美味しい米の炊き方を考えて、それが現地では「姬飯法」と呼ばれていたのかもしれません。
または、姬姓の始祖である后稷(こうしょく)が、中国の農業の神として信仰されていることに由来しているのかもしれません。
そしてこの「姬(き)」という漢字ですが、「姫(ひめ)」とは異なる字です。良く見ないと「姫」だと思ってしまうのですが、別です。日本ではその区別がつかなかったのか、あえて「姬」を使わず「姫」にしたのか分かりませんが、今日まで「姫飯法(ひめいいほう)」と呼ばれています。
「姫飯法」の語源を探したのですが、見当たりませんでした。もし語源を知ってる方がいましたら教えてください。
「姬飯法」で米を食べていた呉太伯以降の周王族が、日本に開拓民として連れて行ったのが恐らくハニ族らの倭人(和夷・倭族)だったのでしょう。これはハプロ的にも間違ってないと思います。
呉太伯が住んでいたのは現在の無錫市です。まさに長江流域。ここから日本を目指しました。
但し、呉太伯が生きていたのは紀元前1285年~紀元前1194年です。日本に稲作が伝来したのが、紀元前3世紀頃と言われています。1,000年弱の間に、呉太伯の子孫が日本で人口を増やしつつ、徐々に勢力地を獲得し、稲作に適した土地への移住を実現していったと思われます。
十分に土地を確保した後、それが紀元前3世紀あたりになると思うのですが、そこで稲作を含めた「古代日本・文化大革命」を起こしたのが呂不韋であり「呂氏春秋」であったのではないでしょうか。
この時期になると、同じ長江流域から日本を目指した他の血族もいたでしょうし、もちろん朝鮮半島から日本に入ってきた人たちもいました。九州は恐らく群雄割拠だったことでしょう。
また、最近の研究では、稲作伝来の時期は紀元前1000年頃まで遡るとも言われています。その場合、呉太伯が亡くなった紀元前1194年以降、そこから100~200年ほど経って日本に伝わったと考えることも出来ますね。つまり、縄文時代には既に稲作が伝わっていたと考えても良い証拠が今後出てくるかもしれません。
宮崎に、諸塚山というところがあります。別名、太伯山とか大白山と呼ばれていて、天孫降臨の地と言われています。これは呉太伯ではないでしょうか。天孫降臨とは、中国からの血族の渡来・定住を意味しているはずです。今後、機会があれば諸塚山を訪れたいです。
色々と分かってきたことも増えてきたので、時間がある時に少しまとめてみたいと思っています。
<追記:2021年8月31日>
「周」の字を、甲骨文字で表現すると面白いことが分かりました。
まさに周王朝は、文字通り田=稲作をすることで国力を増大させた王朝だったと思います。
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