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秦の始皇帝は融和派だった

まずこちらの画像をご覧ください。

直道_甘泉

秦の中華統一後、始皇帝が行った国家事業から、実は始皇帝が異民族と融和的な関係を築いていたことが判明しています。

上記の図は、陝西省・甘泉(かんせん)にあった甘泉宮と、異民族・匈奴をほぼ直線で結ぶ直道(ちょくどう)の跡です。つまり、匈奴からの使者を甘泉宮で迎える外交ロードでした。

異民族と戦うのではなく、繋がろうとする外交努力が分かってきました。一般的には「異民族の侵入を防ぐため」に築かれたとされる万里の長城も、国境的な意味合いで築かれたものも発見されています。

実はその直道は、秦を滅ぼした漢の時代に、破壊されてしまうのです。

関所破壊の瓦

上記の画像は、直道沿いにあった関所を破壊した痕跡です。関所が破壊され、直道が閉鎖されました。秦時代の名残りで、最初は異民族と上手く関係を保っていた漢は、やがて異民族と激しく争うようになります。

始皇帝は好戦的であり、暴政を極めた…とされてきましたが、一方では真逆の事実も分かってきています。漢=劉一族から見れば、秦は正統派の統一国家ではなく、漢から本当の中華が始まったような歴史観がありましたから、どうしても秦=始皇帝を否定せずにはいられなかったのでしょう。

直道の破壊は、秦の否定でもあり、異民族との徹底抗戦の証でもあります。

何の因果か、後の明も、満州族が北京を制圧して倒され清が建国されています。明崩壊に至る間接的な理由の中に、「疫病」「農民反乱」があります。歴史から学ぶ中国が、「Covid-19への対応」と「アメリカによる香港民主化扇動(暴動)」に対し、厳しく対処した理由を、日本人も歴史から学ぶ必要があります。

今を理解するためには、歴史は重要です。

アメリカの正義が、必ずしも中国の正義とはならないのです。民主主義が最高ではなく、社会主義が最悪でもないのです。お互いを良く知り、理解し合い、争いのない世界でありたいですね。


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