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考察|桓騎による趙攻略への貢献

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キングダム本誌とは別に、今まで史実や妄想を交えた考察を行ってきました。今回は、現在展開されている趙との平陽の戦いで大活躍する、秦の桓騎(かんき)将軍について迫って行きたいと思います。

ちなみに、考察記事で現在最も読んで頂いている記事が下記です。現在、週に300PVほど(ありがとうございます)。

桓騎将軍、実は史実でも謎の多い人物です。

原先生のメッセージ

その実像に迫る前に、本誌・第677話(考察記事はこちら)の巻頭で見られる原先生のメッセージに気づきましたでしょうか?これは恐らくコミックスには掲載されないと思われます。

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善悪は裏返る。特に、戦場では。

これ、物凄く深くないですか?今回の考察の最後に、私なりの解釈を書きたいと思います。皆さんも、どんな意味か想像して頂けると楽しいと思います。

史料から見る桓騎

中国語では、桓齮と表記されています。バイドゥ百科でどのように書かれているか、ご紹介したいと思います。

①紀元前237年、秦の将軍になった
②紀元前234年、趙・扈辄将軍を殺害、兵士10万を斬首した
③紀元前233年、上党から太行山脈を越えて趙に侵攻、趙の将軍を殺害。赤麗と宜安(現在の河北省石家荘市藁城区の西南)を支配
④肥下(宜安東北部)で趙・李牧と対峙し大敗
⑤紀元前229年、桓齮は王翦に続いて趙に侵攻するも、李牧に敗れて死亡

バイドゥ百科には上記⑤の通り、始皇18年(紀元前229年)に死んだという記載があります。ただ、これについてはどの史料に基づくのか分かりませんでした。

一方で日本のWikipedia等を見ますと、④と⑤を一緒にして、④で李牧に大敗したあとに誰かに殺されたことにされているようです。

このあたりはあまりにも情報が少なく、桓騎を謎めいた人物にしている要因でしょうね。


桓騎は死んだ?逃げた?

また、桓騎は実は生きていて、樊於期(はんおき)という名前に改名して燕に逃げたという説もあります。これについては、桓騎と樊於期の読み方が似ていることと、趙との敗戦の責任から逃れるために逃亡したという2つの理由から最もらしい説として取り上げられています。

これも近年の研究では、根拠のない説として、また、かなり強引な説という評価が下されています。当時の秦でも、敗戦の将に責任を取らせるということは見られませんので、ましてや趙攻めでは間違いなく連戦連勝であった桓騎を懲罰にかけることはあり得ないでしょう。

そもそも史料が少な過ぎて、李牧と桓騎が直接対決したかどうかも分かりません。桓騎を討てるほどの将軍が趙にいたのかどうかも分からない。


史実からクローズアップされる桓騎の姿

そうなると、やはりクローズアップされる桓騎のエピソードとしましては、下記の3点になると思います。

1.平陽の戦いで扈辄を殺し、10万人を斬首
2.趙攻略で多大な貢献
3.唯一負けたのが李牧が参戦した肥下の戦い

現在キングダムで描かれている部分を含め、以前掲載した図解を再掲しておきます。バイドゥ百科に記載されている通り紀元前229年まで生きていたとなると、番吾の戦い~邯鄲の戦いの開始時も健在だったことになります。

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MAPにするとたいしたことないように見えますが、平陽→宜安の直線距離が約205kmです。桓騎は邯鄲を突き抜けて宜安に行けるはずもなく、史料から判断すると、一度太行山脈を西に越えて上党に行き、そこから北上して宜安に侵攻してます。そう考えると、山脈越えを含め、ゆうに500kmは移動していることになります。

500kmは、東京からの直線距離にすると兵庫県赤穂市まで到達する距離です。どれだけ広い土地を攻略しようとしていたのかが分かります。しかも1~2年の間に、これだけ駆けるわけですから…体力的にもキツイはず。桓騎と桓騎軍は、秦軍の中でも相当鍛えられた軍であったことが想像出来ます。

ということは、当然嬴政からの信頼も厚く、総大将である王翦からの信頼も厚かったと思われます。そう考えると、やはり敗戦の処罰を恐れて…という説は無いのかな、と。

妄想ストーリー

ここで、冒頭の原先生のメッセージを改めて考えてみましょう。

善悪は裏返る。特に戦場では。

皆さんはどう思いますか?

私の妄想キングダムストーリーはこうです。あくまでもエンターテイメントとしてお読みください。


桓騎将軍には、奇想天外な策略があった。それは味方の秦軍の誰もが予期しないやり方で、ましてや趙軍の李牧ですら見抜けなかった策略であった。壊滅寸前と言われていた桓騎軍。虎白公・岳白公・龍白公の趙三将が攻めていた桓騎軍本陣には、桓騎の姿は無かった。味方にも姿を見せなかった桓騎は、味方をも欺く必要があったのだ。戦国史で初めて影武者を使ったのが桓騎であった。

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桓騎は既に本陣を脱出し、伝令に成りすまし、趙本陣に迫った。

夜、急報を告げる伝令。扈辄将軍の姿を確認するや否や、一瞬にして首を取った。翌朝、目をくり抜かれ、臓物を引きずり出されさらし首とされた扈辄将軍の姿は、趙兵の戦意を喪失するには十分だった。「趙兵とその家族全員、扈辄将軍と同じ死に方をしてもらう」と桓騎は叫ぶ。

桓騎は扈辄軍本陣の10万人をその場で斬首した。

「これ以上俺らに楯突いたらこうなる。分かったら降伏しろ」

桓騎軍の快進撃は止まらず、平陽平定後に武城も平定し、邯鄲に迫った。しかしその場を李信と王賁に任せた桓騎は、今度は邯鄲の北から邯鄲攻略を狙った。それは邯鄲南にあった防御壁が落とせないと悟ったことと、邯鄲攻略のためには匈奴討伐のために北方戦線に向かわされていた李牧を「絶対に邯鄲に入れてはいけない」ということを理解していたからだった。

桓騎による邯鄲北側からの侵攻に対して、趙政権は李牧を動かした。それは、「10万人を斬首した鬼畜の桓騎」を止めるのはもはや李牧しかいないと趙政権に思わせた桓騎の策略でもあった。しかも、宜安に出兵させるには、邯鄲から向かうより匈奴戦線から南下した方が速い。李牧と対決するために、桓騎はすべて逆算で戦っていた。

趙政権の命によって李牧は北方から一気に南下し、肥下で桓騎軍と対峙した。桓騎の思い通りであった。扈辄をむごたらしい殺し方をしたのも、10万人を斬首したのも、全ては邯鄲北に李牧を誘き出し、李牧が邯鄲に戻る前に仕留めるためであった。趙攻略を目的とした秦のための「善」を行っていた桓騎は、敵・味方関係なく「悪」とみなされていたが、誰もその真意を理解出来なかっただけであった。ここに孤高の天才将軍の美学が見え隠れする。

「李牧、待ちくたびれたぜ。このまま邯鄲に行けると思うなよ。ここが墓場だ」

「私を誘き出したのはあなたですね、桓騎将軍。その作戦、きっと死んでも後悔することでしょう。私がいれば秦軍は邯鄲を抜けない」

「ほぅ…それまでお前がいれば、な」

しかし肥下の戦いにおいて、李牧は桓騎を上回る謀略で桓騎を捕らえる。李牧の恐ろしいほどの智謀に、桓騎は生まれて初めてゾッとした。最期、李牧に斬首される直前、桓騎はニヤッと笑いながら李牧にこう言った。

「李牧、覚えとけ。善悪は裏返る。特に戦場ではな」

趙軍を苦しめた桓騎は舌を噛んで絶命し、その言葉は李牧の耳奥にこびりついて寝ても覚めても離れる事がなかった。

李牧に万が一勝てない場合に備えて、桓騎は生前ある謀略を王翦に託していた。その謀略によって、李牧の「善」は趙政府からは「悪」と判断され、李牧もまた命を落とすことになるのだった。桓騎は自らの死を持って、秦最大の敵の1人である趙・李牧を時間差で道連れにするという偉業を成し遂げた。そうまでしないと倒せない男が、李牧という傑物であった。

李牧も死の直前、これが桓騎が遺した謀略だということに気づいた。だが時既に遅く、李牧が死地を回復できる余地は残されていなかった。趙政権の暴走は、桓騎という天才将軍によって成った。

これをきっかけに、秦は趙をようやく滅ぼすことが出来たのである。紀元前236年、鄴の戦いからなんと8年が経過していた。桓騎が死して総大将・王翦に手柄を持たせた事実は、王翦のみが知る事実であり、よって後世にも桓騎の偉業は口伝されなかった。ここにも桓騎という男の、神秘性が見え隠れする。

後世、桓騎は「10万人を虐殺した」ことだけがクローズアップされることになるのだが、それはすべてこの時代の傑物である李牧を倒すための戦略の1つだったのだ。それほどに大きな壁であった、李牧という男もまた見事である。秦趙合戦の最大のエピソードだ。

以上です。原先生がどのように描くか、楽しみですね。


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