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徐福再考~佐賀県上陸に際してファンタジー化された背景

徐福とは一体何者だったのか。また、司馬遷の「史記」が伝えるように、秦の始皇帝に不老不死の仙薬探しを命じられて日本にやって来たのは真実なのか。

以前から考察してきたことですが、改めて下記の3点について整理してみたいと思います。

①徐福は、縁もゆかりもない日本の土地に上陸したのか?
②佐賀に建国していた渡来系氏族は?
③徐福と②の答えが導き出す人物とは?

①徐福は、縁もゆかりもない土地に上陸したのか?

皆さんにも、紀元前219年、紀元前210年にタイムスリップした気分で一緒に考察して頂きたいと思います。この2つの年が、徐福が中国から日本に向けて出航した年と伝えられています。

紀元前210年、徐福が上陸した地については諸説ありますが、佐賀県を有力視します。竜王崎、金立山、浮盃…と徐福の伝承地が数多く残っていることと、吉野ヶ里遺跡の存在を重視しました。

紀元前210年と言えば、始皇帝が中華統一を果たした紀元前221年から11年後です。圧倒的な武力と、圧倒的な資金力によって成し得た統一。兵馬俑の規模・精巧さから見ても、始皇帝の時の秦というのはズバ抜けて進んだ国だったと思います。

そんな時代に、統一まで果たした秦の始皇帝が、誰だか知らない単なる方士である徐福に、童男童女3,000人と技術者、五穀や数々の道具を任せて大船団で送り出すわけです。よく考えるとおかしな話なのですが、それは以前の考察を読んで頂くこととします(記事の最後)。始皇帝の命を受けた徐福が、3,000人もの命を預かって、どんな野蛮な人間が住んでいるかも分からない土地を目指すでしょうか?

皆さんが始皇帝だったら、一体どうするでしょう?

もし本当にこれが初出航であって、日本の情報も皆無であり、さらに初めて目指す土地であるならば、何度か日本に調査団を派遣すると思います。中華を統一するほど、地理や戦略に長けた国です。そんな国のトップが、誰だか分からない方士に「おいちょっと仙薬取りに行って来い」と言って3,000人を任せるでしょうか?

普通に考えて、あり得ないと思いませんか?

私は絶対にそんな渡航ではなかったと信じています。徐福の命すら危険に晒す出航なのです。始皇帝は、死んでもいい人間に3,000人の命を任せる馬鹿ではないでしょう。どこかで始皇帝の性格や人物像まで歪められてしまって、既に呉太伯の子孫が日本に定住していたことも伏せられた挙げ句(後述します)、仙薬を探して旅に出るという「神話っぽい話」にすり替えられたのではないでしょうか。徐福ですら、「始皇帝を騙した男」という悪役にされているのです。

②佐賀に建国していた渡来系氏族は?

前述した通り、徐福が上陸したルートは有明海から佐賀県であったことを有力視すると、佐賀県には当時誰がいたのでしょうか?

これも以前、考察をしました。

呉の民(姬)が造った国が火国で、楚の民(熊)が造った国が熊襲でした。火国は佐賀にもあり、ここに呉の民が渡来したのが紀元前473年頃だと考えています。つまり、現在の佐賀県あたりには姬姓の一族が勢力地を持っていたと考えています。

下記もご参考まで。DNA鑑定では、このことは確定したと考えても良いでしょう。

周王族=姬姓の人たちの渡来から、徐福の渡来(紀元前210年)までは、263年ほどあります。この間、稲作に適した土地を探し、開墾していたのかもしれませんね。

始皇帝の時代、秦は情報収集・謀略に長けた国でした。その秦が、春秋戦国時代の周の一族が日本に渡来していることを「知らなかった」ことはないと思うのです。その周を滅ぼしたのが呂不韋。呂氏=羌族です。

海の向こうに、土地(日本)があることは知っていたはず。知っていたからこそ、徐福が出航出来たのです。

③徐福と②の答えが導き出す人物とは?

では、徐福が上陸した佐賀の地に住んでいた周王族=姬姓の人たちとは、何か関係があったのでしょうか?

歴代の周王族と懇意にしていたのは、羌族です。

呂氏の始祖と言われるのは、姜子牙です。またの名を呂尚(太公望)と言います。彼は、周の文王と武王の代に、国師・軍師として周を支えてきました。そして、酒池肉林で有名な紂王の殷を滅ぼすのです。

呂尚はその功績が認められ、営丘(現在の山東省臨淄)に領地を与えられ、国名を斉としました。これが羌族の東進のきかっけとなり、山東省は羌族の一大拠点となります(姜姓呂氏)。この時の呂尚の様子は、故・横山光輝先生の「殷周伝説」にも描かれています。

呂氏は斉という地で、商業を発展させたのです。

その、斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)で生まれたとされているのが、徐福です。呂氏の一大勢力地で生まれたのです。

既に名前を出してしまったのでネタバレしていますが、呂尚の子孫に呂不韋がいるのです。呂氏は周王朝の動きをつぶさに見てきた一族で、呉太伯・虞仲のことも当然知っていたでしょう。そして彼らの子孫が日本に向かったことも、「全く知らなかった」ことはないと思います。

呂氏は、春秋戦国時代の周・秦の政権中枢に入り込んでいて、商業的発展を担いながら軍事・政治にも貢献した一族だったのです。

ちなみに呂不韋は、山東省の隣の河南省で生まれたとされています。

呂不韋ファンとして信じたい妄想

私は、始皇帝が「徐福への信頼」に至るエピソードが無いことから、徐福との出会いを含めて創作だと思ってきました。徐福がいたことは事実でしょう。ただ、あれだけ疑心暗鬼の塊として描かれる神経質な始皇帝が、己の不老不死という欲望のためだけに、誰だか分からない方士に3,000人もの人材を与えて船に乗せるでしょうか。傑物以外に、外交にも繋がるであろう渡航を任せるでしょうか。

また、秦の統一までに描かれる始皇帝の姿は非常にリアルであって、頭の中で映像化できるほど迫力がある。にも関わらず、統一後に突然、「不老不死の仙薬探し」というファンタジーが出てきてしまう。

どうにも、始皇帝の人物像に全く合致しないエピソードなのです。

日本に稲作が伝わり、当時の日本に文化的大革命をもたらしたのが呂氏春秋だということを妄想して逆算すると、徐福は呂不韋であったか、または徐福が呂不韋を連れて日本に渡来した可能性を妄想してしまうのです。

紀元前210年、徐福が日本に渡航した年に始皇帝は亡くなります。この時、始皇帝は50歳。徐福は45歳、呂不韋は仮に生きれいれば80歳でした。
※徐福の生誕年に関しては諸説あり。記事最後のリンクをご覧ください。

徐福は日本に渡った後、紀元前208年に47歳で亡くなったとされています。渡航する時には健康体であったことを想像すると、たった2年後に亡くなるのも少し考えにくい。今にも死にかけの人物を船に乗せることなどしないと思います。

徐福が呂不韋だったとすると、82歳で亡くなったことになります。もちろんこじつけであることは自覚していますが、全く可能性が無いこともない。さらに、呉太伯の子孫(羌族の血が流れている)が日本に来ていたことはDNA的に証明されているので、羌族である呂不韋が日本に来ていたとしてもDNA的には全くおかしくない。

こうして一連の「線」として見てみると、後世で創作をし過ぎたことによって、始皇帝の人物像も徐福の人物像も呂不韋の人物像も、辻褄が合わなくなっているのではないか、と。「もし自分が始皇帝だったら」という立場で考えてみると、その部分がよりリアルに想像出来ると思います。

様々な点と点を紡ぎ合わせてみて、違和感を感じるところに、歴史を妄想するロマンが存在していますね。

そしてどうやら、中国においても日本においても、その国の成り立ちに関わる血族のルーツに関しては、創作で誤魔化しているように思えるのです。まるで口裏を合わせるように、「史記」では日本渡来が「仙薬探し」という形でファンタジー化されていて(太伯の子孫の渡来は伏せてある)、日本書紀では「天孫降臨」などのファンタジーになっているのです。

建国の根源に関わるものは、アンタッチャブルなのかもしれません。

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