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自分の頭で考えるとは?

最近、Twitterにあるタルムードの知恵というbotが面白くて、良く見ている。

タルムードとは、僕も浅い知識しかないのだが、ユダヤ人のラビ達が約1000年分の生きる知恵を集めた書物で、今も新たに書き加えられているという。

内容は倫理から、ビジネス、性生活に至る、正に生きる知恵といった感じ。

全てを邦訳したものはまだ無いそうで、ユダヤ人と関係のない僕のような極一般的な日本人は、先のbotや関連本から、その内容の一部を垣間見ることしかできない。

そもそも僕がこのユダヤ人に興味を持ったのは、自分の好きな作家や俳優がことごとくユダヤ系であったからだ。ポール・オースターしかり、エイドリアン・ブロディしかり、ウディ・アレンしかり。

名だたる企業家、芸術家、作家にユダヤ系が多いことを知り、何故こうも優秀な人材を輩出し続けることができるのだろうと調べると、そこにはこのタルムードを学ぶことが関係していると、一部では言われている。

タルムードの知識botの中にこのような言葉があった。

「多くの者は考えたくないので、逃れる為に本を読む」

この言葉を見て、はたして自分は自分の頭で考えることができているのだろうか?
と僕は考えてしまった。

本を読み、どこかの学者の唱える理論を理解して、これ見よがしに誰かにドヤ顔して要約したところで、自分の頭で考えてはいないのではないか。

巷にこんな言葉が溢れている。
「そんなのは考えれば分かる」
「良く考えないからダメなんだ」
「ちょっとは考えろよ」

自慢じゃないが、僕も数々の愚かしさを犯してきた。

小学生の頃、悪友と一緒に小学校の一輪車を盗んだことがある。
ただの悪ノリで、家まで歩いて帰るのがだるくて、乗って遊んでいた一輪車でそのまま家に帰ったのだ。一輪車に乗り疲れた僕と悪友は空き地に一輪車を乗り捨て、歩いて家に帰った。
全く我ながらどうしようもない。

当時の記憶は曖昧だが、一輪車の件はばれないと思っていたのに、翌日直ぐにばれて先生に怒られて、何故こんなに直ぐにばれたんだ?と思ったことを覚えている。

今考えてみれば、いつもあるはずの場所に一輪車が二つ無いし、皆が一斉に帰宅する時間に、悪友と僕でワイワイ騒ぎ立てながら一輪車に乗っていれば目撃者だって沢山いるのだから直ぐにばれて当たり前だ。でも、当時の馬鹿な僕はそんなことすら考えられなかったのだ。

皆さんも愚かしいスキャンダル記事などを目にすると、「そんなの直ぐにばれるに決まっているのに、なんで考えないのかね?」という会話をしたことがあると思う。
でも渦中の当人は、そこまで考えることができていないのだ。

ここで考えることの意味を問うてみると、それは予測すると言えるのではないかと思う。

考える=予測する

地頭が良いと言われる人というのは、この予測する能力が優れているのではないかと思う。
実際に起きていない抽象的な事柄を頭の中で予測できる能力。
僕は自分自身、脳のこの回路がぷっつり切れていて機能していないと思う。
予測できるのは、経験に導かれたものだけだ。
温度の高まったフライパンに水気の多い素材を投入すると、油が飛び散って料理しづらいとか、旅行には脱ぎ着のしやすい薄手のアウターを一枚持参すると便利だとか、そんな経験則だ。

さて、この考える=予測するを使って、幸せに生きるには?
という命題に取り組んでみる。

元陸上選手の為末大さんが、何かを達成するには目標設定を明確にすることが大切という旨のことを言っていたと思う。
至極当然で、闇雲に努力するのではなく、自分が何を求めていて、何をゴールにするのかを明確にして、そこに向かってゴールと現状のギャップを埋める為に日々トレーニングする必要があるという話だ。目的や理由もなく、やたらと吐くまで走ったって駄目なのだ。

このゴールを明確にするという方法を、「幸せになる」をゴールに定めて僕は早速つまづいてしまった。

何が幸せなのか分からないのだ。

だから、試行錯誤して自分が何によって満たされるのかを探っていくことになる。
そして、その試行錯誤の先にはお風呂上がりの一本の缶ビールが答えだと辿り着く、かもしれない。

さて、自分の頭で考える=予測する為に、もう一つ重要なことがある。

それは知ることだ。

その為に本はある。偉大な先人達が試行錯誤した知恵を我々は引き継がねばならない。

ドラックでキャリアを棒に振った人の体験記を読めば、ドラックに手を出すのはやめておこうと考えるだろう。知ることで悲惨な未来を予測したわけだ。

なので、先述のタルムードの言葉は少し同意しかねる、意義のある読書というものもあるのだ。

と文章を連ねると、少しは何かを考えた気になるが、いやはや自分の頭で考えるのは難しい。

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