白い蓮を撮るということ
「泥中の蓮」(でいちゅうのはす)という諺があるように、蓮の花は「汚れた世の中や煩悩に染まらず、清らかに咲く」といわれます。
もともと中国から仏教と共に日本に伝わったもので、仏像が蓮台(花びらが散ったあとの蓮の花の根元)の上におられるように、仏教と蓮の花は切っても切れない関係にあります。
私は、日本人にとって、単に大きくて美しいというだけの花ではないと理解しています。
そんな蓮の花を撮影するという行為は、聖なるものに近づきたいという願望であり、あるいは諦めの境地であったりします。
カメラを向ける人の複雑な心境と、それに関わりなく、ただそこに咲いている蓮の花。
私は特に白い蓮の花を撮るときに、なにか自分が試されているような、あるいは写真に私の心の闇が浮かび上がるような、そんな畏れを抱きます。
この写真は、神戸市の隣の三木市にある「善祥寺」(真言宗、651年開基)で撮影したものです。
以前から蓮の花が好きだった私は、12年前にネットでこのお寺を知り、以来通うようになりました。
ご住職が全国や海外から蓮の花を集めて栽培されているそうです。
下は10年前に、私がまだ写真家を志さず、単なる趣味で撮影したものです。
背景に水田などをボカして入れ、ブログやホームページに掲載したときに「映える」ように写した、でも未熟な写真です。
撮影した私が恥じるのは、昨日撮影した1枚目と、心のありようが異なることです。
技術とか構図とか、そういうことでなく、写真に写った私の心が全く違うのです。
蓮は早朝に開き、お昼には閉じ、3日ほどで散ってしまいます。
私は6時台にはお邪魔して、人の少ない中、蓮の花と対峙します。
「映え」とか「人気」とか「評価」とか「仏教」すらも考えないで、ただ蓮の花に対峙し、私が美しいと思う姿を撮ります。
もちろん構図や露出などを考慮しますが、それが決まれば念じるようにシャッターを押します。
下は写真家を志して1年経過した昨年に善祥寺で撮影した写真です。
まだ構図を意識しすぎていますが、素直に美しいと思うものに近づいて行ったように思います。
蓮の花を撮るという行為は、
「何故、写真を撮るのか」
「自分にしか撮れない写真は何か」
と自らに問いかけ、原点に立ち返ることができるように思います。
まだ未熟な私が、「写真家」になれるかどうか、不安な中でひたすら撮影を続けていますが、「白い蓮」を写した写真に清廉で穢れの無い心が見えるかどうか?
心の修行はまだまだ続きます。
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