見出し画像

『嘘つきのラプソディー』

働かなくてもお金が手に入る。いや、働くと、手に入る そのお金が減るとしたら…

会議室。ロの字型に並べられた長机。そこに5人の男女が座っている。机の上には「新人ケースワーカー研修」と書かれた資料。

その資料に目を通しながら『なんで わたしが…』と居髪里沙(いかみ りさ)はつぶやいた。

異動の内示を受けた時の戸惑いと落胆が入り混じった感情はいまも消えない。

上愚知(かみぐち)市役所に入庁して3年間、国際課で未来都市計画のビジョン策定を担当していた。

その仕事とはまったく関係のない区役所生活保護課への異動だった。

上愚知市は5つの区で構成されている。それぞれの区には個性があり、里沙が異動した上思路(かみしろ)区は公営住宅が最も多く、外国からの移住者も多い。治安も悪い。つい最近も暴力団の発砲事件があり、その名を全国区に知らしめたところだった。市の中でも、いやもしかしたら全国でも住みたくないランキングベスト1。

なぜ、その区の生活保護課のケースワーカーに異動させられたのだろう。何か大きな失敗でもした…?福祉職でもない、学生時代にそんな勉強をしたこともない。だけど、人事課の決定に逆らう気もない。いまさら過去に戻って結婚、妊娠、子育てで育児休業だなんてできるはずも、相手もいない。ないないだらけだ。どうせ3年もすれば異動なんだと里沙は数年後の自分に思いをはせた。異動初日の研修資料が重い鉛の板のように思えた。

会議室には、同時に異動してきた新しい同僚たち5人がいる。上は50代、下は里沙と隣に座った涼木玲華だ。里沙にとって涼木は知らない顔ではない。同期の集合研修で同じ空間にいた。といっても50名近くだ。同じ研修グループにならなければ仲良くなることもない。ショートヘア、地味な感じの里沙とは違い、長い髪、明るく笑顔を振りまく涼木が里沙に声をかけてきた。

「こんにちは、涼木です。よろしくお願いします!」

里沙は微笑みながら「居髪です」と答えた。

会議室のドアが開いた。上思路区生活保護課長、少し肥満気味の差東(さひがし)が会議室に入ってきた。差東はみんなに向かって丁寧に挨拶をし、生活保護の社会的背景の話のしめくくりに「最後の砦です」と語気を強めた。
「保護の仕事、ケースワーカーについては、この後、不破(ふわ)係長から説明があるから、わからないことがあれば何でも質問してください。聞きにくければ後で周囲に聞けばいいですよ。みんな同じ仕事している先輩ばかりですから。では」

退出した差東課長に代わって不破誠時が入ってきた。背中に一本の棒を通したような姿勢。無駄な肉がない。特に服装に気をつかっている感じもなく、優しそうな眼差しが印象的な好青年…。『何歳だろう。独身かな』と里沙は不破を見つめていた。

「みなさんの研修を担当する不破です。神思路区の生活保護課は全部で5係あります。私は第1係のSV、スーパーバイザーをしています」

ケースワーカーは概ね80世帯を限度に保護受給者たちの家族を担当する。が、実際、ケースワーカーは万年人手不足だ。一人が100世帯を担当することも珍しくない。ケースワーカーが判断に迷ったり、処理に誤りがあったり、係全員のケースワーカーをサポートするのがSVであり、法律にも精通している。

不破が5人に自己紹介を頼んだ。里沙と玲華以外はすべて男性、50代本庁教育課から異動してきた渋川。40代環境センターから異動してきた鹿垣。そして同じ区の市民課から30代の春城。玲華は本庁税務課からだった。本来、ケースワーカーは福祉職だ。が、そこに資格が絶対必要なわけではない。任用という形であれば福祉の仕事も可能なわけだ。

「それでは手元の資料を開いてください」と空席に腰を下ろした不破が言った。

ドンドン 

会議室のドアを強く叩かれた。不破とおそらく同世代だろう。ラフな格好、がっちりした体格の五十辺(いそべ)達夫ケースワーカーが入ってきた。

「係長!来てください!」

開かれたドアの向こうから女性の叫び声が聞こえる。

不破と五十辺の二人が会議室を飛び出し、生活保護課のフロアへと走っていく。

フロアから女性の叫び声が響いている。会議室から見えないが、緊急事態であることを残された5人は理解していた。

渋川は平静を装いながら資料に目を通している。鹿垣と春城はとんでもないところに異動になったなと話している。
「わたし、ちょっと覗いてくる」と玲華に言われ、「わたしも」と里沙は席を立った。
廊下を歩きながら行くべきじゃないと里沙は思う。だけど、置いてけぼりみたいなのが嫌だった。
「税務課でも多いのよ。滞納した本人が悪いくせに、いざ差し押さえられると、殺す気かって窓口で暴れるのよね。不謹慎かもしれないけど、その現場を見るのが嫌じゃないんだよね、わたし」興奮気味に玲華が歩きながら話す。里沙自身も自分が当事者でなければ、その気持ちはわからなくもないと思っていた。

叫び声は続いている。玲華と里沙は扉のない入口の前に立ち止まり、フロアを覗いた。フロアは受付カウンターで仕切られ、待合スペースと事務スペースに分かれている。待合スペース、椅子のない空間にやせ細った女が立っていた。
始業開始直後だ。フロアにいるのは職員とその女だけだ。年齢は40代くらい。髪は乱れ、鬼の形相で周囲に罵声を浴びせかけていた。
周囲の男性職員がその女から距離をとっている。
女の手には包丁が握られていた。
保護課ではこうしたときのために、警察との連携を図っている。警察が到着するまでのほんのすこしの時間を、周囲に危害が及ばないようにしなければならない。
事務スペースの柱の横には防犯のサスマタ。
そのサスマタを手にした男性職員が女に近づこうとしている。その後方に不破が立っていた。
サスマタが女の腹部をおさえた。そのまま壁におさえつければ女の自由を奪うことができる。が、包丁に恐怖を感じた男性職員はサスマタの柄を持ち、腕力だけでおさえようとしていた。
女がカラダごとあらがった。
とりおさえる形を持つサスマタも使い方がわからなければ、相手をおさえる半円形からの力の方が柄を持つ側よりもはるかに強い。
男性職員の手からサスマタが離れた。
ハアハアと息を切らし、女が周囲を見回した。その視線が入口近くに立つ里沙と玲華をとらえた。
里沙の目に向かってくる女が映画のシーンのように映った。女ではない悲鳴が聞こえた。不破が女の後を追いけていた。

ドン。

なにかが里沙にぶつかった。その場に倒れた。起き上がろうとした。床に血の海が広がっていく。里沙の横で玲華が倒れていた。大きく見開かれた玲華の目は天井を見つめ、その腹部には包丁が突き刺さっていた。

それから半年。

涼木玲華は重傷だったが、幸い命に別条はなく今も休職している。おそらく来年の春には保護課とは違う部署で復職することになるだろう。こうした事件があった場合、人事課はかなりの配慮を行う。つまり、涼木玲華は一日もケースワーカーを経験することもなくケースワーカーを卒業したわけだ。
かすり傷くらいなら、わたしが負いたかった。そう思いながら、里沙は新人ケースワーカーとして第1係に配属、不破SVのもとにいた。

現行犯逮捕された岐士摩明日香の精神鑑定が行われ、まもなく裁判が始まろうとしていた。

岐士摩(きじま)明日香43歳。上思路区の賃貸マンションに単身で入居していた。もともと大企業で総合職として勤務していたが体調を崩して退職。働くこともできず、貯金も底をついて保護を申請していた。
精神的な疾患も疑われたため、担当ケースワーカーが岐士摩に心療内科を受診するように何度も訪問し、指導していた。熱意のある担当ケースワーカーだった。受診を拒否していた岐士摩だったが、担当ケースワーカーが同行するなら受診してもいいと気持ちが動いた。
そのタイミングでの担当ケースワーカーの異動だった。岐士摩の心の中の壁が崩れた。何かに追いつめられていたのかもしれない。
役所にとっては当たり前、岐士摩にとっては握っていた一本の細い命縄が切られてしまったのだ。岐士摩に殺意はなかった。殺意は役所にあったのかもしれない。

て、まるでドラマのヒロインのような話をしたわたし、居髪里沙。26歳。

地方公務員4年め。市役所勤務を経て区の保護課でケースワーカーになって6か月。身長も体重も人並み。髪はショートで気もショート。これがわたしだ。
もともと国際課で上司の考え方が気に入らず、ずっと逆らっていた。だいたい役所の上のヤツって老害なのよ。普通にわかるだろってこともわからない。訴求対象を絞ってイベントの告知をしようとしても、もっと子供からお年寄りまで、親しめるような告知にしなくちゃと空港橋からのバンジージャンプにおじいちゃんおばあちゃんや孫のイラストまで使えって。「どうかしてんじゃないの、うちのガチガチ頭」と声に出しちゃってた。そういう意味では飛ばされたのかもしれない。
なんでわたしが保護課…また新しいことをイチから覚えなきゃならないのと思ったわ。研修資料は分厚いし。管理職の方々は保護課に行ったらおとなしくなるだろうと思ったのかもしれないね。
でも、大切なことを見誤ったのよね、上も人事課も。
わたし、嫌いじゃないんだ。ざわつくところ。
岐士摩明日香の件だって、岐士摩は逃げようとしただけ。びっくりした涼木玲華が案内板につまづいて、わたしにぶつかって、バランス崩して岐士摩にぶつかって、自分から包丁に向かっていったみたいなものじゃない。かわいそうに岐士摩は震えて、その場で気絶よ。はあ~。

今日も、ケースワーカーの日常が始まるね。

さて、訪問だ。

「不破係長、藍元(あいもと)ところ行ってきます」訪問カバンを手に持ち席を立った。

「すみません、居髪さん。藍元さんです。ちゃんとサンをつけてください」

はあ〜

「係長、思うんです。この仕事をしてて当たり前ってなんだろうて。当たり前のことができないヒトに普通の対応する必要てあるのかなって。わたしがケースワーカー歴半年であろうがベテランであろうが関係なく、呼び捨てでもいいヤツっているんじゃないですか」

「居髪さん。それでも〇〇さんです。すみません。お願いします」

「わかりました。収入申告もちゃんとせず、何かあればすぐに文句を言ってくる。働けるのに働かないア イ モ ト サ ンところに行ってきます!」

「は、はい。気をつけて。いってらっしゃい」

うちの係長、まじめ。融通が利かないし、気が弱くてホントに困っちゃう。窓口でも電話でも「すみません」の連呼なんだもの。謝るだけの人生かよ。あのときだって担当の後ろから岐士摩を見てただけなんだから。

里沙は外に出て空を見上げた。

「夏日だ。暑い」と肌に悪そうな紫外線を浴びた。

11月だと言うのに秋の気配はない。子供のころ感じてた紅葉の秋はもうないのかもしれない。
今から行く藍元(さん)はもともと和食の調理人。18歳から料亭で働いて40歳まで板前をしていたが、去年料亭がつぶれた。次の職場が見つかるまでは貯金と失業給付で食いつなぐつもりだった。
が、パチンコ、競馬、競艇が楽しすぎた。あっという間にお金はなくなり、時間も過ぎた。生活費を借してもらうあてもなく、生活保護課を訪れ、「人生やり直します」と目頭おさえながらいったのはどこのどいつだ。
保護費がはいればすぐにギャンブルだ。求職活動もしていない。どんな所で働きたいて聞いたら。
「時間は夜9時くらいから午前0時くらいまで。時給3、4千円ももらえれば十分だ」って。
詳しく聞くと地方競馬とボートはナイターもあるらしく、最終レースが終わってから働く。翌日の予想に影響しちゃいけないから午前0時には仕事を終えたいって。あるかそんなもの。なめてんのかって話。きょうはそんなア イ モ ト サ ンに働くきっかけを作ってやろうじゃないの。

働かなくてもお金が手に入る。いや、働くと、手に入る そのお金が減るとしたら…ヒトは働かない。

上思路南公営住宅の7階。建物はかなり老朽化しているが、駅近の人気物件。空き部屋ができると、すぐに保護を必要としているヒトが入居。ケースワーカーにとっては、また新たな保護受給者が誕生してしまう超不人気物件だ。建物中央のエレベーターを降りた。ワンフロアに10世帯はある。目標は一番端っこ701号室。

ん?

背中に視線を感じる。振り向いた。

バタン。708、709、710号室あたりのドアが閉まった。

ふふ 709の松鍋か。残念だけど、きょうはあんたに用はない。

701号室のチャイムを押した。ピンポーーン

返事なし。アポイントはとっていない。なんせ、ア イ モ ト サ ンはアポイントをとっても急用ができてしまうとんでもなく忙しいヒトだ。連続してチャイムを押すのは逆効果。まずはドアの頭上の電気メーターを見る。回っている。ヨシッ

コンコンとやさしくドアをノック。かがんで新聞投函口を押す。そこから中をのぞいて。

「アイモトさ~ん、居髪でーす。近くを通りかかったら、窓越しにアイモトさんの姿が見えたんで寄らせてもらいました(見えてないけど)」

ココなのよね。居る前提で声をかけちゃう。居留守はつかわせない。

チェーンが外され、ガチャとドアがあいた。やせ細った頬、無精ひげ、とても40歳には見えないアイモトが眠そうな顔をのぞかせる。短パンによれよれのTシャツ。抜けた前歯に、愛嬌を感じないでもない。

「うとうとしてて気づかなかったよ」

「ちょっとだけいいですか。玄関口でいいから。アイモトさんに書いてもらわなくちゃいけない書類があって」

「なに?お金でももらえんの?」

「うん。それに近いかも」

アイモトの目に光るものがあった。

「これなんだけど」と計画書の文字が入った書類を渡す。

「自立…計画書…。居髪さん、前に会ったときに言ったよな。仕事は自分で探すって」

「うん。だからこれを持ってきたのよ。アイモトさんだって何度も何度も仕事はどうなりましたって聞かれるのイヤでしょ。この書類ね、オレはこのやり方で仕事を探すって意思表示なのよ。結果、仕事が見つかって保護が必要なくなったら祝い金ももらえるんだから」

「ほんとか」

ホント、就労自立給付金があるのよ。ま、この書類とは直接関係ないけど。

「なにを書けばいいんだよ」

「まずは自筆で名前ね。あとはどうやって仕事を探すか。この書類の項目に書いてあるから、ハローワークに行くとか。行くならどれくらいのペースで行くとかを書くだけよ」

「なるほど、それだけでいいのか」

「毎日行くとか書かなくていいから、無理のない範囲でね。といっても1か月に1回じゃ少ないかな」

たぶん地方競馬の場外馬券売り場に用時があるんだろう。アイモトは週1回ハローワークに行く予定と計画書に書いた。職種は調理関係。希望金額は月50万円の手取りでいいやって書きやがった。あるか。

「これでいいか」

「ありがと。じゃあちゃんと書類受けとっとくね」

時計を見た。約10分か。訪問としたら短いけど、ま、いいか。

「居髪さん。上がりなよ。インスタントだけど、コーヒーどう?」

アイモトのやつ、まるでお金が約束されたと上機嫌。

「ありがと。次があるからゴメンね」とこっちも上機嫌。

ドアを閉めた。汚ないエレベーターで下におり、ついさっきまでアイモトと話してた公営住宅を見上げた。空が青い。「藍もとさん、あんたも青いなあ」

はっ!何かが飛んでる。いや落ちてくる。わたしめがけて?

ビシャ 目の前の地面に水が飛び散った。足下に破裂したスーパーのポリ袋。

見上げた。

709号室あたりに人影があった。

ふふ やってくれるじゃない。松鍋…妖怪の砂かけばばあにそっくりな松鍋…

松鍋ばばあ。とわたしは呼んでいる、ココロで。この前、窓口に来て「財布を落とした。生活費がない。保護費を前借りさせてくれ」と叫んだばばあだ。もちろん、保護費に前借りなんてない。どこで落としたの?詳しく話をきくとつじつまが合わない。合わないどころか、お金がないと、毎朝のムギダコーヒーのモーニングがいけないんだとまでいいだしやがった。モ、モーニング、ムギダのモーニング1回で1週間おうちでモーニングができるんだぞ。思いっきり説教してやったわ。
帰り際「あんた、年寄りにやさしくないねえ。ろくな死に方しないよ」てほざいたばばあだ。

ふふふ 誰に喧嘩売ってんだよ。


静かに709号室のドアが開く。松鍋がドアから顔を出した。ドアの上部につけられたヒモが引っ張られ、切れた。ポリ袋がビリッと敗れた。

バサッ ザーー

松鍋の頭上に公園の砂場の砂が降り注ぐ。

上思路南公営住宅を遠くに見ながら里沙は手のひらをはたいた。手の平から砂が落ちていく。松鍋ばばあ、あんたの住んでる住宅に防犯カメラはないんだよ。ザマーだ。

よかった。アイモトから受け取った書類がぬれなくて。

ひとりのケースワーカーが受け持つ件数(ケース)はとても多い。多すぎる。なかには働けるのに働きたくないヤツがいる。そりゃそうだよ。働かなくてもお金がもらえるんだから。
年度はじめにケースワーカーは係長・SVと1対1の話し合いの場を持つ。どの世帯が要注意なのか、だれが問題なのか。そして働けるのに働かないヒトをひとりかふたりピックアップする。

「能力活用選定ケース」とするのだ。

わたしはアイモトを選んだ。

選ばれた本人からは、自署による計画書を受け取る。あとはその計画通りやれるかどうかを見守る。計画通りできなかったら。指導するのだ。指導に従わなかったら。指示書という反則切符を切るのだ。切られても改善しなかったら。保護をとめるのだ。

ふふふ

保護をとめて、人生は甘くないと教えてやるのだ。気に入らなければ福祉課の窓口で暴れてもらってもいい。その方が保護も切りやすい。

ふふふ

と里沙はアイモトから受け取った書類に目を通していた。担当地域から遠く離れた隠れ家カフェで、アイスラテを飲みながら。

数か月後

案の定、アイモトはハローワークに行ってなかった。行ってたら日付のわかる求人相談票があるはず。当然、アイモトはそんなことも知らない。

電話して、「保護が変更なるかも」とびびらせてやった。

アイモトは血相を変えて保護課に怒鳴り込んできた。不破係長が「すみません。詳しい話は相談室で」とアイモトを個室に通した。もち、わたしも同席だ。

どこの福祉事務所にも生活保護課にも個室が数室ある。相談やこみいった話をするため、プライバシーを保護するためだ。職員が危険を回避するために出入口が2つのところもある。1つの場合は必ず相手を奥に座らせる。そして、個室には、危険を外に知らせる非常ボタンが壁際か机の下にある。4人掛けのテーブル。奥にアイモトを座らせて、1つの出入口近くに私と係長が座った。う〜ん、なぜか係長の方が出入口に近い。

「保護をやめるってどういうことだよ」
顔が紅潮してるぞアイモト。

「変更するかもって言いました。やめるとは言ってませんよ。アイモトさん」とわたし。

「まあまあ」と係長。

「じゃあどう変更するんだ」
顔がゆでダコだぞ、アイモト。

「まだ何も決まっていませんよ。アイモトさん、週に1回ハローワークに行く予定はどうしたんですか」とわたし。

「まあまあまあ」と係長。

「それはおまえが…」と真っ赤な太陽のアイモト。

「私は無理のないようにと言いましたよ。アイモトさん、自分で書きましたよね。私はあなたを信じてあの書類を受け取ったんです(信じてないけど)。あの書類はアイモトさんと私たちが約束を交わした書類です。その約束が守られないならペナルティがあってもしかたないですよね。まだ指示書をだしていません。出る前に求職活動をしてくればいいんです。いきなり働けとは言ってません。求職です。理由もないのに、それもできなければ保護を停止や廃止といった変更もあります」とわたし。

「まあまあまあまあ」と係長。

まあまあまあ…ておまえはまあまあ星人か。

「居髪さん、もっと丁寧に説明を…」と不破係長が違う言葉をはいた。

ガタッ テーブルが揺れた。

アイモトの右手がジャケットの内側に入った。里沙の脳裏に岐士摩が浮かんだ。

やばっ 思わず手元においてファイルで顔をカバーした。

(あれっ?静かだ)

そーと顔の前のファイルを横にずらしてアイモトの方を見た。私の横に座っていたはずの不破係長がアイモトの横にいる。アイモトが固まっている。不破係長の手がアイモトの右手首を抑えている。軽く手をそえているように見えるだけなのに、アイモトは動かない。

わたしと同じように状況がつかめない、アイモトが声を出した。

「な、なにをしやがる…」よく見るとアイモトの右腕の肘が曲がる方向とは逆に向いている。右腕が一本の棒になり、右肩が吊り上がっていく。

「痛ッ」

不破係長がアイモトの耳のそばでささやいた。
「話し合いましょう、藍元さん」
近くにいる私でさえ聞き取りにくい小さな声。

「わかった、わかったから…」アイモトが苦痛の声をもらす。

わたしの手が非常ボタンに伸びた。

不破係長の手がアイモトから離れた。静かにわたしの横に座り直して、わたしの手をおさえた。

「すみません。藍元さんが胸をおさえるから、苦しいのかと思っちゃいました」

違うだろ、どうみても…アイモトは服の中に凶器を持っている。で、不破…あんたはいったい…手がやわらかくて、あったかいじゃないか…

「藍元さん。まず居髪があなたに説明したことは間違っていません。もちろん、人間ですから話し方の上手い下手、伝わりにくさはあるでしょう」

「いや、この女はオレを騙したんだ。騙して書類にサインをさせて、保護をやめさせようとした」

そのとおり!いやそうかもしれない。

「すみません。藍元さん、私たちは今現在保護を受けている方に、できるなら自立してもらうと願っています。その自立のためにいろいろなことが考えられます。居髪があなたに書いてもらった計画書もその一つです」

「書類、書類てそんなもの、ただ書いただけじゃないか」

「藍元さん、確認書を覚えていますか」

「確認書…」

「保護申請書が受理されて、あなた自身が保護の説明を受けて、その内容を理解したという確認書です。そのなかには…」

「そんなものあったっけ」

「藍元さん。もし、そんなもの書いた覚えがない。というのなら、私たちは本当の意味であなたの保護を考え直さなければなりせん。あなたは保護を受けるために、私たちを騙すつもりで書いたかもしれませんから」

「…わかった…なんか面倒くさくなってきたな。ようは仕事を探せばいいんだろ」

「そうです。アルバイトからでもいいんです。ただし、きちんと収入を報告してください。たとえ1円でも」

「はいはい。その分保護費が減るってわけね」

なんだなんだ、どうしたアイモト。ここはもっと暴れるとこだろ。不破係長と仲良くなってる場合じゃないだろ。

「減るんじゃないんです。収入に対して控除もあって、それを超える分を収入として認定します。そして最低限度の生活をおくるために足りない分を保護費として支給しているだけです。藍元さん」

アイモトが不破に頭を下げて相談室から出て行った。不破がじゃあまたと手をふっている。わたしは?わたしの存在は?

不破がアイモトの後ろ姿を見ながら話しかけてきた。

「居髪さん、当たり前って何でしょうね。ボク自身もわからないですよ。あんなヤツらのために保護の制度があるのかと思うんです。本当はここにも来れず、保護が必要なのに保護を申請しないヒト。そのヒトたちを見つけて声をかけるのが仕事じゃないかと。でも、そのヒトたちがどこにいるかわからないんですよ」

「係長、アイモトさんは更生しますか」

「う〜ん、難しいかな。ジャケットのなかに刃物をしのばせるようなカタですから。もうチンピラですよ」

「じゃあどうして?警察を呼んでもよかったんじゃないですか」

「捕まる。仮に刑務所に入る。刑期を終える。すぐに仕事は見つからない。どうなると思います」

「保護を申請ですか」

「結局、同じじゃないですか。だったら保護を受けながらアルバイトでもパートでもいいじゃないですか。ちゃんと収入申告しないかもですけど」

「そんなことしてたらケースワーカーの仕事が増えるだけじゃないですか」

「そうなんですよね。居髪さんのようなやる気のあるケースワーカーが来てくれたことに感謝しなきゃですね」

答えになってない。生活保護って何だ?当たり前って何だ?

ヒトは嘘をつける。この世は嘘つきの集合体だ。

さらに数ヶ月後

「係長、アイモトところ行ってきますっ」

「すみません、居髪さん…藍元さんです」

「はい。収入申告出さないアイモトォーさんところ行ってきますッ」

新聞投函口をのぞく理沙。

「アイモトさーん」

もう、ホント嘘つきなんだから。なめてるね。ま、話し合うとするか。気が短い私からしたらけっこう気長だわ」笑

居髪里沙。ケースワーカー歴約1年。彼女に福祉のココロはまだない。いや福祉のココロを持つことはない。

働かなくてもお金が手に入る。いや、働くと、手に入る そのお金が減るとしたら…
そう思っても仕方ない世界がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?