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いい湯だな。ハハ。

子どもの頃から銭湯通いだった。のれんをくぐり、下駄箱に草履を入れ、番台に回数券を置く。脱衣所で同級生が「おお」と声をかけてくる。待ち合わせしてるわけじゃない。2人で湯ぶねのヘリに腰をかけ、きょうの学校での出来事やクラブ活動のこと、テレビ番組の話までいろんなことをしゃべりあう。すっかり湯冷めした2人は「じゃあな」と銭湯をあとにする。ホント、何気ない日常だった。

そんな銭湯も大人になり、お風呂のある家で生活するようになり、遠ざかっていった。たまに広い湯ぶねが恋しくて、近くの銭湯に行く。のれんをくぐるとオシャレな番台、キレイな脱衣所、多様な湯ぶね…これはこれでいいんだけどなあ。

息子が家を離れ遠方に住むようになった。所用があり、息子の家に泊めてもらうことにしたある日。商店街のはずれに銭湯の煙突があることに気づいた。銭湯か…使いなれないお風呂よりも銭湯だなとタオルを持って出かけた。年季の入った外観、のれん、下駄箱、年老いた女の人が番台に座っていた。広い脱衣所、広い湯ぶねに高い天井。カラン…と音が響く。なんの変哲もない、普通の銭湯だ。シャワーも古い、腰かけもバケツも年季が入っている。ただ、どれもどこもキレイだ。丁寧に掃除されている。湯ぶねも脱衣所もキレイで居心地がいい。

ああ、いいな。

年に1回か2回、息子のところで泊まるたびに、その銭湯に出かけた。楽しみにもなっていた。でも、その銭湯ののれんがかからなくなった。しかたかない、高齢だったもんなと自分を納得させた。

それから数年、息子の家を訪れ、街を歩いていると。

のれんがかかっているのだ。以前と同じのれんが。きっと、誰かが引き継いだのだ。息子の家でタオルをかり、銭湯に行った。下駄箱も同じだ。番台につながる引き戸を引いた。

目の前に、カフェ…と思えるキレイな空間。番台にも若い方が座っていた。くつろいでいる方々も若い。脱衣所もホテルの浴場みたいだ。前とは違う。裸になって、湯ぶねへの引き戸を開いた。

同じだった。

同じ光景が目の前にあった。番台もくつろぐスペースも脱衣所も過去に戻るタイムマシーンだった。昔の良さを残して、今を取り入れていく。そうかあ、そんなことが銭湯で出来るんだ。

変わらなければならない。
ずっと変わらないでほしい。

その両方をこれからも見つめていきたいなあ。銭湯の未来のため、自分のために。

いい湯だなあ。ちゃぽん…

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