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フリーランス、やーめた。

きっと、みんないっしょだ『自由への憧れ』

 右も左もわからない。仕事のイメージもなんとなく、ただ若さだけで飛び込んだ編集の世界。40年以上も前のこと。いま考えれば、よく採用されたなと思ってしまう。会議室、新人研修は、情報とはなんぞやから始まり、出版や印刷業界の話をコンコンと聞かされる修行の世界だ。愛川欽也さん似の先輩講師が数字を列挙しながら、わかる?と聞いてくる。わかりません とこたえると「はい、消えたー!」と『なるほど!ザ・ワールド』を彷彿とさせる厳しい研修だった。
 そして、編集部に配属。まずは校正ねと会社からハンドブック、辞書、赤ペン、付箋等々をありがたく頂戴する。当時は手書きの生原稿が主流。最初の数か月は癖のある字に苦戦しながら、目が原稿とゲラを行ったり来たり。会社で毎日夜食をとり、ある時間になるとタイムカードをガチャンと押して、会社に残ってた。ヘロヘロで労働基準法なんて無視の世界だ。いまなら大問題だよな。でも、編集の入り口に立ったことを実感した日々だった。
 あっという間に数年が過ぎた。ライターやカメラマン、デザイナーとの関係もできてきた。そんなとき、一般のヒトがぜったい選ばない癖のあるメガネをかけた男が現れた。その男のユニフォームはアロハシャツ、フリーランスのコピーライターだった。「ボクの仕事は鉛筆があればいい。鉛筆と原稿用紙があれば、どこででも仕事ができる」と、その男が女性の前でつぶやいた。その言葉がココロに響いた。そんな自由な仕事もあるんだ。会社に束縛されず、上司に気兼ねもしない。大自然の中、ブランコに乗って青空にキックするハイジのように、ハハハと笑って生きていけるんだ。

welcome『自由』!   goodbye『自由』!

 ハイジを思い数年後に会社を円満退社。フリーのコピーライターとしての仕事が始まった。仕事依頼は徐々に増えていき、日本全国を飛び回った。生意気にも取材日のスケジュール調整がつかないため、お仕事を断ったこともある。移動中の新幹線の中でも、ファミレスでの食事中も手から2B、0.9㎜のシャーペンが離れることはなかった。超多忙の赤塚不二夫さんが1ページひとコマにキャラのどアップ。ボクも許されるなら原稿用紙1枚に大きく「あ」と書きたいくらい忙しかった。それでも、書くなら いいものを書きたい。創るなら 違うものを創りたい。そう考えてた。会社員じゃない。就業規則にもノルマにも時間にも束縛されない 。そう思ってた。そう思ってたんだよなあ。
 気づいたら、ゆるやかな時間とはほど遠い。時間にがんじがらめにされていた。スケジュール管理も自分、経理も自分、取引先との関係構築、営業も自分。ぜーんぶ自分。全部自分で自由に?やっていいんだよ?の世界。否、大きな自己責任だ。誰かが仕事をとってきて、お願いね じゃない。集中しているときでも電話は鳴る。電話を無視できる立場じゃないし、無視しても生きていける才能と度胸の持ち主じゃない。書くこと、創ることに集中できる時間は、人が寝ているときだと知ったのもその頃。24時間営業のレストラン、夜中にコーヒーを飲みながらボクも1年365日、24時間営業だよ、いっしょだねとつぶやいていた。収入はそこそこになった。なったけど、時給換算すると…薄給だった。

それでも、書くこと創ることは楽しかった。

 1995年、阪神淡路大震災。書ける。創れる。そんな環境じゃなかった。疲れた。フリーから組織に戻った。人生の転機、転職だった。

ボクなりの『自由』

 それから数十年、いまも組織にいる。書くこと、創ることからは離れてしまったかもしれない。それでも組織には組織の良さがある。後輩には、組織に縛られるんじゃなくて、組織を利用すればいい とアドバイスしている。いまのボクに働かされている感はない。言いたいことを言っている。自分のやるべき仕事をしている。時間じゃない。納得するまで自分の仕事をしている。もちろん、妥協点はある。どんな結果になっても自分の考えを持ち続けられている。ひとつのことを、あーでもないこーでもない。もしかしたらこれか!て考える時間がある。誰かに命令されたわけでもない。考えたいから考えている。これって、自由なんじゃないかと思っている。

そうか、ボクが求めてたのは、ココロの自由だったんだ。

 若かった頃、職場の先輩に、会社の歯車になるのはイヤだと思っていないと聞かれたことがある。答えに詰まったボクに先輩は「大丈夫。キミはまだ歯車にもなれていないから」と教えてくれた。お給料をもらいながら、人生を、仕事を教えてくれるヒトがいた。会社員で良かったなといまは思う。そしていま、定年を過ぎても会社員でいさせてもらっている。

『自由への憧れ』はまだ終わっていない。


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