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【エッセイ・思い出綴り】郷愁・昭和の伊那まち〜長野県伊那市③
③ 通り町銀座 〜 伊那は小京都
7月ともなると、京都の繁華街では町中に祇園囃子が流れ、八坂神社の氏子区域では、町中に祇園祭提灯が飾られる。
梅雨明けの7月、まだ寒い伊那でもかつて、”伊那ぎおんまつり”で賑わった頃があった。
「 "ぎおんまつり" って何? 何のお祭り?」、と子供の頃よく母に聞いたけど、答えは決まって、
「子供に関係ない、ごふく屋さんのお祭りよ、」
というものだった。
京都の本家祇園祭と同じ時期に、市内の呉服屋さんを中心とらした商店街が、大セールをしていたと、後になって聞いたけど、ちょうど七夕祭りのしぎ
当時は"大中(だいじゅう)さん、エビスヤさん、ほていやさん、始まりは呉服店だったという島田屋(シマダヤ)さん、それに、ニシザワ横の牧田染め物店など、あちこちに染め物屋さんがあった。
有史以来、信州からは、木曽馬や牛車や農業使役のための、牛馬が多く都に送られている。古事記にすら、"手良'などの名前が記されている。
奈良平安の時代から、信州には多くの平家の荘園があって京の都との公益が盛んだったことが、憶測されるし、何やら京都風の名前も多い。
室町、元町(もとちょう)、二条通に二条橋、
三州街道、伊那街道が整備されて、伊那部宿がきちんとできたのが、江戸中期と言われていても、
奈良平安の時代から、都人が伊那まで来ていたであろうことを思ってしまう。
三州街道を浜松まで下って、都まで行った伊那の牛が朱雀大路を牛車を引き、保元平治の乱や源平の戦さでは、平家の武将たちを乗せていたのではないかなど想像してしまう。
アタクシのご先祖様は、きっと博労か着物商い、または、伊那まで来て、遠い都を懐かしんではいる下級武士、だったんやろ、と。
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まだ、通りのシンボルだった王冠の飾りはない。隣りのマルトキ時計・レコード店も現存。
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