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Wセンターはダークサイドとライトサイドー乃木坂46『人は夢を二度見る』MV観つづけてみた

前回乃木坂46『人は夢を二度見る』MV感想を記事↓にしてからも

MVを観つづけ、聴きつづけています。もはやどうすれば止められるのかわからなくなっております。はい。危険な状態です。

そんなとき思い出しました。このMVは他者に出会えと言っていました。(たぶん)なので、もう一度記事にしてできれば他者(読者)に出会いたいと思いました。みなさま、どうかわがままにおつきあいいただければ幸いです。

さて、繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し観ていて気になった点を列挙します。(症状が出てきた)

今回は特に光(と影)、衣装、人的配置に注目しました。

0:00 山下美月の顔が光と影に分かれている、そして普段着
0:25 久保史緒里は制服
1:12 Wセンターそれぞれがすでに可能世界の僕と手をつないでいる、しかし無表情のまま
1:35 Wセンターは可能世界の僕たちを共有している
2:05 Wセンターのひとりは、ひとりはにいる
2:45 山下の顔がほぼの部分のみ映っている
2:49 久保は中央縦の境界線の中央に立っている
2:54 歩いている山下の姿が床にっている
3:11 可能世界の僕たちと出会ったあとは山下の床にっている姿は画角から外れている
3:15 ふたり(たぶんWセンター)が光の中で手をつなぐ(おそらく影にいたWセンターのひとりが光のところまできている)
※右手と右手でつながっているのでふたりが手をつないでいる
4:13 Wセンターのうちひとりはたまに消える、ひとりは消えない
4:52 久保の衣装はアシンメトリーで左肩のみ白、山下の衣装はパッチワークで左肩はピンク(このピンク部分の生地を久保のスカートのアシンメトリー部分からとってきたのなら激アツだが、残念ながら生地は違う感じ)
5:32 Wセンターがくっつく、久保は左肩をみせない、山下の左肩の部分にはピンクの袖はない
5:48 3:15の時とは違い久保の手を久保がつかむ

これらが示しているのは、Wセンターはふたりでひとり。実はひとりしかいないのだけど、見方によって違って見えるというか、ライトサイドとダークサイドというか、インフォーマルとフォーマルというか。とはいうものの、Wセンターそれぞれふたつに分割されているふしもあるから、4人でふたり、または4人でひとりかもしれないけど。うーん、丸山監督、複雑すぎでは?

衣装もなかなか凝っています。4:52では久保の衣装はアシンメトリーで左肩のみ白、山下の衣装はパッチワークで左肩はピンク(このピンク部分の生地を久保のスカートのアシンメトリー部分からとってきたのならこの二人は衣装によってつながっていると思われます。しかし5:32のふたりがくっつくシーンでは、久保は左肩をみせない、山下の左肩の部分にはピンクの袖はないように見えます。つまり物理的に接触(あるいは融合)すると、衣装のつながりは必要ないということなのではないか。いやあ、丸山監督、リスペクトします。むっちゃ凝ってる。

ということでWセンターは融合してひとりになっています。そして5:48では久保にフォーカスします。久保がつかむのは自分の手なので、他者は消えているのだと思う。3:15にわざわざ先行して他者と手をつないでいたのは、融合前だったからなのでしょう。融合後は視聴者=久保が自分の過去の夢をギュッとつかむシーンで終わります。

ここでフォーカスされるのは久保のみ。山下はつねにダークサイドにいて、衣装もパッチワーク。つまり傷だらけなんですよね。山下は僕のダークサイドだから(変な意味ではありません)なんだか申しわけない。ダークサイドよ、ごめんなさい。

実は僕は『人は夢を二度見る』という作品が二度目の夢(あるいは希望)そのものだと思っています。一度目の夢(あるいは希望)は前回の記事でもコメントしたとおり『君の名は希望』だと考えています。前者は後者のちょうど10年後の作品だからです。
秋元康は、救われるきっかけは他者との出会いにあるけれど、見返りを求めてはいけないというような歌詞を大量につくっていると思います。

もし君が振り向かなくても
その微笑みを僕は忘れない
どんな時も君がいることを
信じてまっすぐ歩いていこう

『君の名は希望』

この考え方と『人は夢を二度見る』MVは整合します。『人は夢を二度見る』はおそらくひとりの視聴者を登場人物全員で表現しています。きっかけは『人は夢を二度見る』という作品に与えられたけど、そこから先は自分で夢をつかみます。きっかけを与えられたあとは自己完結しています。

ところでMVの中に視聴者の存在、つまり僕の存在を感じる箇所がいくつかあります。

一箇所目
3:55 可能世界の僕たちのうちここだけひとりカメラに向かって踊っている
この場面は一人称視点になっていると思います。だから可能世界の僕が現実世界の僕に向かって踊っている。この場面以外は三人称視点になっているので、視聴者に向かってはいない。可能世界の僕が、自分に向かって笑顔で手を振ってくれている。うれしい。(変な意味ではありません、いや変な意味かも)

二箇所目
4:19 Wセンターの間がひと席空いている。カメラのピントはこの席に合わせているような気がする。視聴者である僕はここに座っている想定なのではないか。

三箇所目
4:24 4:19からカメラがスライドして可能世界の僕たち三人
だから視聴者はこの三人で表現されています。
4:51 Wセンターの間に4:24の三人のうちの中央の僕が配置されている
『人は夢を二度見る』は「2」がキーワードになっているので、Wセンターとか光と影とか、『君の名は希望』の続編といったアイデアが出てくるのですが、このような二項では現実をとらえられないというのが現代思想の教えでした。二項におさまらない「余り」「不可能なもの」「エラー」「第三の審級」などと呼ばれる一項を追加すると現実をとらえられるようになります。これを表現している箇所が上の二箇所だと思います。つまり三人称視点でみたときの僕はWセンター+井上和でできている。井上は「第三の審級」なのですね。なんだか一番渋い役です。
では一人称視点で表現されている箇所はないでしょうか。
ありました。
4:26 賀喜遥香+遠藤さくら

ということで感動しっぱなしな状況です。

この記事の目的は、読者の方々と出会うことによって、MVを観つづけるという無限ループから抜け出すことでしたが、ここまで書いてきて、やはり素晴らしい作品だから、むりに抜け出さなくてもいいのではないかと思いはじめました。でも抜け出さないと作品のメッセージ(自分で自分の夢をつかむ)に答えていないことになってしまう。はぁ。ということで、もうちょっとだけ観つづけてから抜け出すことにしたいと思います。

追伸
ファンのみなさま、まちがっていたらホントすみません。

参考
以下の「マカロンは好きではない」さんの記事を参考にしました。ありがとうございました。

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