イスラエルのガザ侵攻
中東における紛争と緊張は、数千年にわたる歴史に根差しています。その中で、ユダヤ人とアラブ人の対立は特に注目されます。この対立の背後には、宗教、領土、民族などの複雑な要因が存在します。イスラエルからハマスが実効支配するガザ地区への地上侵攻が始まりつつあり、緊迫感が高まっています。イスラエルのユダヤ人と、パレスチナ自治区であるガザ地区のアラブ人との争いには、長い歴史上の裏付けが存在します。
イタリアのフィレンツェにあるアカデミア美術館には、有名なミケランジェロ作のダビデ像が展示されています。この像は、古代イスラエル王国の王となるダビデ (ヘブライ人) が巨人ゴリアテ (ペリシテ人)と戦うため、投石器を左肩にかけている様子を描写しています。この旧約聖書に記載されている戦いは、今日の紛争の原点なのかもしれません。
旧約聖書によれば、紀元前1000年頃にサウル王が、ヤハウェ信仰 (ユダヤ教の原型) を国教とする古代イスラエル王国をカナン (パレスチナ) に建国しました。その後、ダビデ王、ソロモン王と引き継がれ、ダビデの息子ソロモンの時代に、王国は栄華を極めました。
カリフォルニア大学サンディエゴ校UCSDによるティムナ銅鉱山の最近の学術調査により、古代イスラエル王国の繁栄を支えたと思われる時代の大規模な銅精錬所跡が、高精度の放射線炭素年代測定により、紀元前11世紀から9世紀の物と同定されました。このことにより、旧約聖書中の伝説であるソロモンの栄華が裏づけられ、大きな話題になっています。
古代イスラエル王国は、紀元前930年、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。紀元前597年、バビロニアの侵攻でユダ王国が滅亡し、戦いに負けた人民がバビロンに捕虜として連れて行かれました (バビロン捕囚)。そして、彼らはユダ王国の遺民という意味でユダヤ人と呼ばれるようになりました。
紀元70年にユダヤ戦争が起こり、ローマ帝国によりエルサレム神殿に火が放たれて破壊され、ユダヤ人は帝国内に散らばり、これは「ディアスポラ (民族離散) 」として知られることとなりました。パレスチナの地は、イスラエル王国やユダ王国が滅亡したあと、支配者が目まぐるしく変わり 、1516年から1917年までは400年間オスマン帝国の支配下となり、主にイスラム教徒のアラブ人が居住していました。
およそ3000年前にカナン (パレスチナ) の地に建国された古代イスラエル王国の再興を夢見て、シオニズム (ユダヤ人国家建設運動) の高まりとともに、1947年に国際連合総会に於いてパレスチナ分割案が議決され、翌年には、神との約束の地パレスチナに、ユダヤ人によるイスラエルが建国されました。
この地にはもともと多くのアラブ人が住んでいましたから、これに反対するアラブ世界の国々と、イスラエルとの間で第一次中東戦争が勃発しました。その後、第二、第三、第四次中東戦争、ガザ侵攻などが起こり、その結果、この地域は、イスラエルとパレスチナ自治区に分かれることとなり、イスラエルに住むユダヤ人と、ガザ地区やヨルダン川西岸地区の2つの自治区に住むアラブ人の間に、常に緊張状態が生じることになりました。
第二次世界大戦後、国際連合が認めたとは言え、世界中に離散したユダヤ人がイスラエルに移住し、多数のアラブ人が住んでいた地域に割り込んで来たのが、少々無理だったのかもしれません。
現在、毎日のようにパレスチナ・イスラエル戦争について報道されています。この激しい民族上そして宗教上の戦いは、パレスチナ地域の古代から続く激動の歴史を考えると、その抜本的な解決の糸口を見つけるのは容易ではないことが理解されます。
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