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ビットコイン以前のクリプトの歴史 - Pt. 3 クリプトの戦い

70年代、80年代、90年代、00年代と暗号技術を支えた人たち

パート3について
Before Bitcoinは、暗号通貨の技術や思想を歴史的に知ることを目的としたシリーズです。今回はそのパート3です。パート1, 2をまだお読みでない方は、十分に理解していただくために、ぜひお読みいただくことをお勧めします。

  1.  70年代 公開鍵の誕生 

  2.  80年代 分散化の原点

パート1では、公開鍵暗号の成り立ちと、その生みの親の話を書きました。マーチン・ヘルマン、ホイットフィールド・ディフィー、ラルフ・マークルの3人です。この3人の功績が、暗号技術に対する社会の関心を高める最初の大きなうねりとなったのです。

その最初の波に乗ったのが、デイビッド・チャウムという暗号技術者でした。

パート2では、チョウムが公開鍵暗号の研究を続け、匿名通信、決済、分散型サービスに関する研究を行ったことを紹介しました。彼のアイデアは、後にビットコインや暗号通貨という概念を生み出すことになる、サイファーパンクス運動で採用されることとなります。

パート1とパート2では、政府による個人の自由の侵害に対抗してサイファーパンク運動が形成されたことを探るパート3の地盤を固めることになった事項について触れました。このサイファーパンク運動は、後にTOR、Bit Torrent、Wikileaks、Bitcoinを生み出すことになります。サイファーパンクを理解することは、ビットコインとその技術としての意味を理解する助けになります。

80年代の続き

80年代、テクノロジー、ソフトウェア、コンピューティングは飛躍的な進歩を遂げました。

  • 1982年、Adobe、Autodesk、Sun Microsystems設立

  • 1983年、Intuit設立、Microsoft Wordリリース

  • 1984年、Cisco、Dellの設立及びMicrosoft Wordリリース。Hewlett Packardが最初のインクジェットプリンタをリリース

  • 1985年、AOL設立

  • 1987年、McAfee Anti Virus設立

  • 1989年、Adobeのフォトショップ1.0が発売され、Apple社が米国企業売上高ランキングの上位100社入り

技術革新が進む一方で、実際の生活、法律、社会など他の分野は遅れをとっていました。インターネットの世界では、今どき12歳の子供でもうんざりするようなユーザーネームのハッカーが幅を利かせていました。犯罪者はテクノロジーによってますます洗練されていきましたが、アメリカ政府はなすすべもなく無知なままでした。

インターネットというトレンドについて理解しようとするビル・クリントンとその同僚

バクスター捜査官と伝説のスター・ウォーズ防衛請負人:Autodesk

1990年4月初旬、ジョン・ペリー・バーロウ(John Perry Barlow)というロックバンドの作詞家が、FBIから「事情聴取」を求める電話を受けました。彼は早くからインターネットを利用し、多くのオンライン・コミュニティに参加していました。そして、なぜFBIから連絡があったのかは分かりませんでしたが、その依頼を断ると逆に怪しまれると思い、事情聴取に応じました。

数日後、連邦捜査局のリチャード・バクスター特別捜査官が、彼の家の前に姿を現しました。バーロウが、「NuPrometheus」というハッカー集団に所属し、盗んだMacintosh ROMのソースコードを配布したのではないかとの疑惑があり、聴取に至ったという内容でした。バクスター捜査官のほとんど証拠がないにも関わらず疑惑を被せんとする姿勢に、バーロウはすぐにバクスター捜査官と話が通じないことを悟りました。

この事件はソフトウェアとテクノロジーが絡んだ犯罪であったため、然るべき専門知識を持った人間が調査に派遣されるだろうと予測していたバーロウにとっては真逆の状況でした。

「バクスター捜査官がコンピューター技術に全く精通していないため、複雑な状況になっていました。私は自分の無実を証明する前に、まず疑惑自体が何かを彼に説明しなければならないことにすぐに気づきました。」

John Perry Barlow

取り調べは3時間にも及びました。

「例えば、AutoCADの発売元であるAutodeskはスターウォーズの主要な防衛請負業者であり、そのCEOはキャプテン・クランチとしても知られる悪名高い電話盗聴犯、ジョン・ドレイパーにほかならないと聞かされました。笑いが止まらなかったと同時に心配になりました。」

John Perry Barlow

父親が自分の不器用な息子を笑うのと同じように、バーロウはそこに座っているうちに、アメリカの将来を心配するようになりました。その時、彼はバクスター捜査官をはじめとする政府の混乱が、いかに人々の権利と自由を危険にさらすかを悟ったのでした。

3時間の死闘の末、リチャード・バクスター捜査官はバーロウを解放しました。バーロウは今回の自分の体験を、世界初のオンライン・コミュニティ・フォーラムであるWELLに投稿しました。1985年に設立されたこのフォーラムは、今をときめくヒップスターたちが集う場所でした。

ほどなくして、同じような経験をした別のメンバーからバーロウに連絡が入りました。そのメンバーとは、80年代のソフトウェア王と呼ばれたミッチ・ケーパー氏でした。彼は、メモを取るソフトを作り、最初の表計算ソフトをリリースしたLotus社の創業者でした。Lotusはその後、1990年にIBMに35億ドルで買収されることになります。

80年代の記事より。左がビル・ゲイツ、真ん中がケーパー

ケーパーは、ハッカーグループNuPrometheusが行ったのと同じ犯罪で告発されました。彼はまた、FBIのソフトウェアやテクノロジーに対する無理解を非常に憂慮していました。もし当局がそれらを理解しなかったなら、どうしてそれに付随する権利を尊重することができるでしょうか?

1週間もしないうちに、ケーパーはバーロウに会うために飛行機でやってきた。雪が降りしきる中、2人は自分の経験や最近のシークレット・サービスによる「サン・デビル作戦」について話しました。

サン・デビル作戦は、クリントン政権がサイバー犯罪をターゲットにした法執行活動の一環でした。1月の初めに、彼らはそれを発表する公的な声明を発表していました。

「私たちの経験から、コンピュータ・ハッカーの容疑者の多くは、もはや寝室でコンピュータを使っていたずらをするような愚かなティーンエイジャーではないことが分かっています。中には、コンピュータを使って違法行為を行う、ハイテク・コンピュータ・オペレーターもいるのです。不当な捜索や押収から国民の身体、家、書類、所持品を守る権利を侵してはなりません。令状は、宣誓または確約による裏付けがあり捜索する場所と押収する物や人物が明確に記述されていなければ、発行してはなりません。」

これは、おおよそ次のように要約されます。

「犯罪と戦うためであれば、私たちは何をしてもよいでしょう。しかし、例え犯罪と戦う時でも、暴力や虐待はしないよう努力はしますよ。」

サン・デビル作戦の最初のターゲットの1つは、Legion of Doomとして知られるハッカーグループでした。そしてその直後、Acid Phreak、 Phiber Optik、 そして Scorpionとして知られるメンバーが攻撃されました。彼らは電話システムをハッキングしたとして告発され、シークレットサービスは彼らのドアを蹴り破り、家中をひっくり返したのです。コンピュータはもちろん、書籍、ノート型電話、オーディオテープなど、不審な電子機器も押収されました。まだ18歳で実家暮らしの彼らの家族まで、警察の捜査対象にされました。

バーロウとケーパーの2人は、話し合いの末に、自分たちの市民権が完全に侵害されていることに気づき、自分たちを守るために何かしなければならないと思いました。

電子フロンティア財団の始まり

バーロウはベンチャー企業で儲けたお金で、ハッカーの裁判の弁護をすることに同意しました。1週間もしないうちに、バーロウとケーパーはニューヨークで、3人の若者のための弁護団を立ち上げました。彼らは、市民的自由の擁護で有名な法律事務所RBSKL(Rabinowitz, Boudin, Standard, Krinsky & Lieberman)と協力しました。その翌日、Acid Phreak,、Phiber Optik、Scorpionの3人はRBSKLの法廷に足を運び、90年代最初のサイバー紛争が始まりました。

そのあと、あるジャーナリストがバーロウのFBIでの経験をフォローするためにバーロウに連絡を取ってきました。そのジャーナリストとの電話の中で、たまたまバーロウは、ハッカーたちを守るためにケーパーとともに努力したことを話しました。彼らは予想もしていませんでしたが、その数日後、この内容が新聞に掲載されました。

ロータス創業者、ハッカーを擁護

この新聞の見出しは世間を騒がせ、すぐに拡散されました。Apple社の共同創業者であるスティーブ・ウォズニアック氏は、ケーパー氏とバーロウ氏の法的努力に無制限の資金を提供することに同意し、アドバイザーとして乗り込んできました。ウォズニアックと一緒に、技術系起業家のジョン・ギモアが加わりました。

ギルモアは、NSA (National Security Agency, アメリカ国家安全保障局)を困らせるのが趣味のトラブルメーカーで知られていました。ギルモアは、1989年には、NSAが禁止している暗号の論文をリークしたばかりでした。独学でプログラミングを学び、Sun Microsystems社の5番目の社員としてキャリアを積んだ彼は、「自分が正しいと確信しない限り、決して仕事を引き受けない」ことで知られていました。彼は、Sun Microsystemsのストックオプションで潤い、80年代後半は、「アナーキスト、狂人、テロイスト」がたむろする場所として知られるフォーラム(alt forums)のホストを務めていました。最近では、1989年にCygnus Supportという会社を立ち上げ、言論の自由、ソフトウェアの自由、暗号の自由という情熱を追求するようになりました。アナーキストであり、自由の戦士であるバーロウとギルモアのグループは、彼の信じるものを体現していたのです。

報道のすぐ後、彼らはSteve Jackson Gamesへの襲撃を知りました。3人のハッカーと同様に、このゲーム会社もシークレットサービスにオフィスごと没収されました。当時、Steve Jackson Gamesは「サイバーパンク(Cyberpunk)」というタイトルのビデオゲームを作っており、CIAはこれを「コンピュータ犯罪の手引書」と考えていたのでした。ただ、シークレットサービスは、同社の電子メールにすべて目を通し、同社からの報告の通り、多くの電子メールが削除されました。シークレットサービスは無謀にも暴走し、当時はデジタル著作権という概念もありませんでした。

1990年6月8日、バーロウは代表的な論文「Crime & Puzzlement(犯罪と困惑)」を発表しました。ケーパー、ウォズニアック、ギルモアの3人のハッカーが関与するまでの経緯と、3人のハッカーの弁護について書いています。

「アメリカは、情報そのものを適切に保護し伝達するための法律もメタファーもないまま、情報化時代に突入しました」

Crime and Puzzlement

不正と戦うための正式な組織の必要性を感じた彼は、記事の最後で、「デジタル・スピーチと憲法のサイバースペースへの拡張に関連する分野における教育、ロビー活動、訴訟のための資金を調達し支出する」組織、電子フロンティア財団(Electronic Frontier Foundation, EFF)の設立を明らかにしたのでした。

EFFの噂はすぐに広まり、バーロウ自身も驚いたことに、この問題は世間から圧倒的な支持を受けることになったのです。Steve Jackson Games社の事件は、その後、歴史的な判例となり、電子メール及び音声通話へのアクセスには令状を要するというルールが取り決められたのでした。

翌1991年、バイデン上院議員は、テロ対策に焦点を当てた法案であるBill 266に、ある追加法案を提出しました。この法案は、「法律で適切に許可された場合、音声、データ、その他の通信のプレーンテキスト内容に政府がアクセスすることを許可する。」というものでした。これは基本的に、あらゆる形態の通信を政府が自由に利用しスパイできるようになることを意味します。そう、あらゆる形態の通信をです。

当時、暗号化プログラムを作っていたあるソフトウェアエンジニアが、このニュースを耳にしました。フィル・ジマーマン(Phil Zimmerman)として知られる彼は、過去10年間、核兵器凍結運動家としてリベラル派の政治に深く関わってきましたが、最近になってテクノロジーに力を入れ始めていました。

彼は、コンピューターがあれば誰でもRSA暗号アルゴリズムを使ってメッセージやファイルを暗号化できるツールを作っていました。RSAは軍事用と考えられており、当時は商業的にしか使われていませんでしたが、ジマーマンは、誰もが強力な暗号技術を利用し、個人的な通信ができるようになるべきだと考えていました。彼のプログラムは「PGP」と呼ばれていました。PGPとは、「Pretty Good Privacy」の略で、「Ralph's Pretty Good Grocery」という食料品店からヒントを得た名前です。

彼は、PGPを利用してどうやってビジネスをやろうかと漠然と考えていましたが、法案 Bill 266のことを知ったとき、そのニュースに注目しました。彼は、このニュースを運命的なものだと思いました。

「政府がスパイ行為を合法化しようとしているのだ。」ジマーマンは、この法案を究極の期限と考え、できるだけ多くの人の手に渡るようにと急ぎました。5回連続で住宅ローンの支払いが滞ったとき、ジマーマンはこう言いました。

"これは商業製品などではなかった。人権プロジェクトだった"

Phil Zimmerman

そして、バージョン1.0はお粗末だと思われていましたが(睡眠不足+お金がない+急ぎの仕事という組み合わせは、ソフトウェアを書くのに最適なものではありませんでした)、彼は1991年5月にPGPをリリースし、そのソフトウェアのドキュメントに含まれている彼の有名な記事「なぜ私はPGPを書いたのか?」も一緒に発表しました。

"プライバシー "が非合法化されれば、無法者だけが "プライバシー "を持つことになる。諜報機関は優れた暗号技術にアクセスできる。武器や麻薬の大物商人もそうだ。防衛請負業者や石油会社、その他の巨大企業もそうだ。しかし、一般の人々や草の根の政治団体は、軍事レベルの公開鍵暗号技術を手頃な価格で手に入れることはほとんどできなかった。
PGPは、人々が自分たちのプライバシーを自分たちの手で守れるようにするものだ。PGPの社会的ニーズは高まっている。だから私はこれを書いた。”

Phil Zimmerman

彼は、さまざまなフォーラムやサイトにPGPをアップロードし始めました。PGPはオープンソースで、無料で、商業利用するためのライセンスも必要ありませんでした。彼は、迫り来る破滅の日に備えて、軍事レベルの暗号を日常的に使えるようにしたかったのです。活動家の友人たちに助けられ、PGPは普及し始めました。(ご存じですか?ほとんどの全体主義的な政府が台頭する前に、彼らは銃を没収し、所有することを禁止しました。ナチス・ドイツ、ソビエト連邦、第二次世界大戦中のイタリアなどがそうでした。)

PGPは1週間もしないうちに世界中で使われ始め、1カ月もすると、すでに何千人もの人がダウンロードしていました。「もし、ロシアが独裁政権になったら、あなたのPGPはバルト海から極東まで普及し、民主主義者を助けるだろう」とジマーマンに発言した人もいました。

しかし、ジマーマンの努力にもかかわらず、EFFを含む市民自由団体はバイデン上院議員に対抗し、法案266からこの追加条項を削除しました。結局、PGPの緊急公開のきっかけを作ったのはバイデン氏であったことになります。

メイとヒューズ、2人の非常にクレイジーな人物

翌年初め、ギルモアはサンフランシスコで暗号学者を招いてパーティーを開き、酒を酌み交わしました。エリック・ヒューズとティモシー・C・メイが出会ったのは、この時でした。

ヒューズは、アムステルダムのDigicash社から帰国したばかりの若い数学者でした。メイは、もともとインテルのハードウェア・エンジニアで、この3年間、デイヴィッド・チャウムのアイデアに関するノンフィクション小説を書こうとしていたところでした。

エリックは20代半ば、メイは30代後半でしたが、同じようにクレイジーなリバタリアンであることから、すぐに意気投合しました。偶然にも、二人はデイヴィッド・チャウムの作品に同じように夢中になっていました。

ティモシー・C・メイは、海軍の将校に育てられたこともあり、無骨な性格の持ち主でした。12歳の頃から自由奔放なリバータリアンであり、銃が大好きでした。「重くて冷たい金属製の銃器を持つと、解放されたような気がして力が湧いてくる。」チャウムが子供の頃、鍵や金庫で遊んでいたのと同じように、メイのお気に入りのおもちゃはAR-15アサルトライフルと.357マグナムであった。そして、その言葉通り、メイはハードウェア・エンジニアとしてのキャリアを歩み始めました。

80年代には、自由主義的な考えからサイバースペースの荒野に引き込まれ、「暗号化によって、サイバースペースで何ができるかというローカルな法律のほとんどを簡単に、しかも安全に無視することができる」と空想していました。1986年、彼はデイビッド・チャウムの論文「Security without Identification」を読みました。1986年、デイビッド・チャウムの論文「本人確認なしのセキュリティ:カードコンピュータがビッグブラザーを廃人にする」を読んで、仕事を辞めました。チャウムの考えを書きたいと思ったのです。インテルの社員となり、ストックオプションで金持ちになった彼は、「自由の度合い」という小説を書き始めました。メイは、デジタルマネー、データヘイブン(「ブロックチェーン」)、タイムスタンプ、NSAの監視によって支配される世界について書こうとしたのです。そして、スパイ小説を書く多くのティーンエイジャーと同じように、彼はその小説を完成させることはありませんでした。根っからのエンジニアである彼は、作家として3年間奮闘した後、副業に終止符を打ちました。「こんなくだらない小説は書きたくなかった」と。

エリック・ヒューズは、カリフォルニア大学バークレー校の学部で数学を専攻していました。その頃、暗号学会(CRYPTO '86)でデイビッド・チャウムの研究に初めて触れたといいます。チャウムはデジタルマネーのシステムに言及しており、デジタル化が進む世界では、匿名での支払いが重要であることを強調していました。他の人とは違い、ヒューズはテクノロジーと暗号の政治的な意味合いに捕らえられていました。彼は、短期間のコンサルティングの後、アムステルダムに出て、デイビッド・チャウムが創業したDigicashで働くことになりました。しかし、研究に没頭する一方で、ヒューズはチャウムの人柄があまり好きではなかったと語っています。これはDigicashの社員が耳にしても誰もが驚くようなコメントではなかったでしょう。ヒューズはDigicashに短期間在籍した後、故郷に帰っていきました。

彼は、1991年5月、バークレーの大学院に入学するため、帰国しました。ヒューズが賃貸物件を探す間、泊まる場所が必要だと言っていたので、メイが彼の面倒を見ると言ってきました。ヒューズは、しばらくメイの家に住むことになりました。

ヒューズとメイは3日間、ひたすら暗号の話をしました。他のメンバーは本業を持っていましたが、メイは金持ちでありながら売れない作家という珍しい組み合わせであり、ヒューズは20代の若さだったため何の縛りもありませんでした。

「数学、プロトコル、ドメイン特定言語、セキュア・アナノマス・システム(Secure anonymous system)について、3日間みっちり話し合いました。

"やれやれ、楽しい時間だった "とメイは言いました。

初めてのミーティング

その後1991年の9月に、ヒューズ、メイ、ギルモアの3人は、技術系リバタリアンの定期的な会合を開くというアイデアを思いつきました。彼らはこのアイデアを気に入り、新しく借りたヒューズの家に招待状を送りました。そうして9月の土曜日の朝、30人ほどの学者、エンジニア、暗号支持者たちがヒューズの新しい借家の家具のない床に座ったのです。そして、ミーティングは始まりました。

メイは、暗号の概念や、予定されていた議論の背景を、詳しく説明した57ページの資料を用意していました。その中には、前週にリリースされたPGP2.0のフロッピーディスクも含まれていました。

配布物を仰々しく配った後、彼は5年前に作った「暗号アナーキスト宣言」を読み上げ、ミーティングを始めました。

これは1988年、メイが作家として短いキャリアを積んでいる間に書いた政治的マニフェストです。世界のデータ、自由、統治が暗号と数学の法則によって支配される未来像が描かれていました。元々は、暗号学会「クリプト '88」のために書いたものでした。彼は何百部も印刷して配ったのですが、誰も暗号の政治的な意味合いについてあまり関心を示しませんでした。

しかし、クリプト '88に出席していた人たちとは違って、メイがマニフェストを読み上げると、床に座っていた暗号マニアの雑多な人たちがうなずきながら賛同してくれたのでした。

"政府があなたを監視できないなら、あなたをコントロールすることもできない。政治は永続的な自由を誰にも与えたことがないし、これからも与えることはない。"

Timothy C. May 

メイはプライバシーや自由の保護に関して、企業を信頼することはありませんでした。その代わりに彼は数学の法則を信頼したのです。

2017年のビデオ電話会議で、メイは少なくとも頻繁に出席していた者の1人か2人が、おそらくビットコインを作ったとコメントしています。

住む世界をめぐる最初の話し合いの後、彼らは暗号の概念をシミュレートする一連のロールプレイングゲームを始めました。

この時点で、この人たちがいかに相当なオタクであるかに気づいたことでしょう。

午後から夜にかけて、彼らは紙と封筒を使って、デジタルマネー、情報市場、偽名経済、評価システムなどについて突き詰めました。彼らは当然ながら、チャウムが最初に遭遇した問題に行き着きました。メタデータとその開発可能性です。80年代以降、暗号技術がほとんど進歩していないことに不満を感じながら、チャウムの解決策である「ミックス・ネットワーク」をどのように実現するかについて語り合いました。一晩中、暗号について語り合いました。

翌朝、ヒューズとメイがベーグルを買いに行っている間、彼らは自問自答しました。

暗号マニアはサイバー・スペースに大勢いるのに、なぜこの集まりを物理的な世界に限定したのか?

ヒューズは、インターネットは誰かの居間ではなく、チャットルームで構築されることを悟りました。ヒューズは1週間以内にメーリングリスト1.0を開発し、リメーラリスト(電子メールのチャットルームを想像してください)を作りました。このメーリングリストは、異なるユーザーとの間でメールを送信し、本来の送信者の身元を偽名で隠蔽するものでした。ハル・フィニーはPGP 2.0をリメーリングリストに実装し、Cottrellという別のサイファーパンクはメッセージのタイミングを隠すためにメッセージバッチを実装しました。

ヒューズの女友達で、技術雑誌の編集者だったジュード・ミルホンは、「あなたたちはとんだ暗号マニア、サイファーパンクスの集まりだね」とコメントを残したのでした。

これはサイバーパンクスとサイファーの語呂合わせで、この言葉はやがて誇りと政治的反抗の象徴として使われるようになりました。最初のミーティングから1ヶ月以内にメーリングリストが立ち上がり、メンバーは電子メールで購読することができるようになりました。
cypherpunks-request@toad.com

13年の歳月を経て、デイビッド・チャウムが提唱したミックス・ネットワークのコンセプトは、ついに実現されたのです。

サイファーパンクスの誕生

このメーリングリストは、暗号技術、麻薬市場、暗殺、政府政策をめぐるアメリカの最大の秘密の議論の場となりました。ジュリアン・アサンジや、TOR、Bit Torrent、そしておそらくはBitcoinの作成者たちは、早くからこのメーリングリストに参加していたのです。

1週間以内に100人の加入者があり、その年の終わりには、世界中で2,000人以上の同様のリメーラーが支持していたことになります。

彼らの最初のメッセージの1つは、1992年10月10日に表面化し、第2回サイファーパンク・オフライン・ミートアップの詳細を発表しました。今回は、現在のGoogleの所在地、マウンテン・ビューにあるギルモアの会社、Cignus Supportのオフィスで開催される予定でした。

第2回ミーティング -- 1992年10月10日
第2回ミーティングは、シグナスの新オフィスで開催されます。 正確な
住所と行き方は後ほど。

まだ正確な議題はありませんが、数日中に決定する予定です。どうか今すぐカレンダーに印をつけ、友人たちに伝えてください。このミーティングから今後発表があるまでは、招待状には推移的信頼システムを使用しています。 あなたが希望する信頼できる人を招待し、その人もまたその人が希望する信頼できる人を招待する、といった具合です。

第1回ミーティングで試したクリプト・アナーキー・ゲームは、未経験のアイデアから期待通りの成功を収めました。 このゲームは、継続的にプレイとプレイテストをしたくなるほど便利で楽しいものなので、今回と今後のミーティングでも引き続きプレイすることになると思います。

最初のセッションでは、再販業者(reseller)や評価する動き(reputation behavior)など、興味深い新しい現象が見られました。 今回は2時間のセッションを行い、その後にディスカッションを行います。

サイファーパンクスのメーリングリストは、デジタル領域におけるプライバシーのための技術的防御について、議論するフォーラムです。

サイファーパンクスはプライバシーが良いものであると考え、これがより普及されることを望みます。サイファーパンクスでは、プライバシーを欲する人々は、自分自身でそれを作り出さなければならないと考えます。政府、企業、あるいは顔の見えない大きな組織が恩義からプライバシーを与えてくれることを期待するのではなく、自分たちでそれを作り上げなければならないと考えます。

サイファーパンクスは、人々が何世紀にもわたって、ひそひそ話や封筒、密室、宅配便を使って自分たちのプライバシーを作り上げてきたことを知っています。 サイファーパンクスは、他の人々が自分の経験や意見について話すことを妨げようとはしません。プライバシーを守るための最も重要な手段は、暗号化です。暗号化することは、プライバシーの欲求を示すことです。
しかし、弱い暗号で暗号化することは、プライバシーへの欲求が強すぎないことを示すことになります。サイファーパンクスは、プライバシーを望むすべての人々が、それを守るための最善の方法を学ぶことを望みます。

したがって、サイファーパンクスは暗号技術に専念しています。 サイファーパンクスの願いは暗号について学び、教え、実装し、より多くのものを作り出すことです。サイファーパンクスは、暗号プロトコルが社会構造を作ることを認識しています。サイファーパンクスは、システムをどのように攻撃し、どのように守るかを知っています。サイファーパンクスは、良い暗号システムを作るのがいかに難しいかを知っています。

サイファーパンクスは実践を好みます。 公開鍵暗号を研究するのが好きです。匿名や偽名のメール転送や配送について考案するのが好きです。DC-netで遊ぶのが大好きです。そして、あらゆる種類の安全な通信で遊ぶのが好きです。

サイファーパンクスはコードを書きます。我々は、プライバシーを守るために誰かがコードを書かなければならないことを知っています。
そして、それは我々自身のプライバシーに関わることなので、自分達で書きます。サイファーパンクスは自分のコードを公開し、仲間のサイファーパンクスがそれを使って実践したり遊んだりできるようにします。サイファーパンクスは、セキュリティは一日にして成らずと言うことを理解し、少しずつしか前進しないことに対してとても忍耐強いです。

サイファーパンクスは、あなたが彼らの書いたソフトウェアを気に入らなくても気にしません。サイファーパンクスは、ソフトウェアを破壊することはできないことを知っています。 サイファーパンクスは広く分散したシステムを停止させることができないことを知っています。

サイファーパンクスは、ネットワークをプライバシーのために安全にします。

アナウンスメント(ANNOUNCEMENT)
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第2回ミーティング
1992年10月10日(土)
正午12:00~午後6:00
Cygnus Support offices
1937 Landings Drive
Mountain View

サイファーパンクスの第2回ミーティングは、土曜日の正午に行われます。 ジョン・ギルモア氏のご厚意で、Cygnus Supportの新オフィスにミーティングスペースを提供していただきました。 このオフィスはとても新しいので、実はシグナス自身もまだ入居していないでしょう。このミーティングは何もない大部屋での開催となりますので、枕(椅子)持参でお越しください。道順はメッセージの最後にあります。

あなたが信頼している招待したい人を招待し、その人にもそうさせる、といった具合に進めてください。 またミーティングに招待した人はメーリングリストにも招待してください。 ただし、ただ告知を載せるだけではいけません。

ミーティングに参加する予定の人は、全員私に参加の旨をメール(hughes@soda.berkeley.edu)で送ってほしいのです。ゲームプランニングのため、土曜日までに大まかな人数を把握したいと思います。

好評につき、正午からミーティングを始めます。 事前に食べておくか、ブリトーなど食べる物を持参してください。 最初の時間帯で食べても大丈夫です。

対面での鍵配布のために、できればPGP公開鍵を持参してください。
鍵配布にはポータブルPCが1〜3台必要なので、持ってこられる方はリストに投稿して他の方に教えてあげてください。

第1回目のミーティングを終えて、厳密なスケジュールは意味がないことがわかりました。このミーティングは非常にカジュアルなスケジュールになっています。

スケジュール
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正午から、他の人たちが見ている前でビジネスを行うという暗号アナーキー・ゲームのセッション2をプレイする予定です。2時間程度プレイしてから、その後1時間程度、体験談を語り合います。 前回の開催からの改善点をいくつかあげると、デノミネーションマネーをよりフラットにする、プロダクトをより広く流通させる、ウォッチャー(例えば政府関係者など)を増やす、そして事前にフォームを印刷しておく、といった点があります。
その後、10分か20分ほど休憩を取り、再編成します。
後半は、リメーラのセキュリティについて話し合います。 私がディスカッションをリードします。 プロトコルを設計し、攻撃と防御を分析します。 電子マネーのプロトコルはDigiCashでやったことがありますが、リメーラーはもっと簡単です。しかし、それでも午後のディスカッションだけでは足りないでしょう。 できるところまで進め、6時くらいまで解散とします。
その後は、希望者で夕食を食べに行きます。 どなたかお勧めのレストランがあれば私に教えてください。

道順
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場所は1937 Landings Drive, Mt. Viewです。 101からアンフィシアター・パークウェイへ(Rengstorff Aveの湾岸側)、最初の信号を右折します。
右折を過ぎ、小さな丘に差し掛かる手前。
を右折し、Landingsコンプレックスに入ります。 私たちはH棟にいます。

  1. Cypherpunksは、プライバシーは良いものであり、より多く存在することを望んでいます。

  2. Cypherpunksは暗号技術に特化しています。

  3. Cypherpunksは実践を好みます。

  4. Cypherpunksは実際にコードを書きます。
    歴史上の他の政治運動とは異なり、サイファーパンクスは直接行動によって政府と対等に渡り合い、打ち負かすことができました。

この時送られたメッセンジャーのアーカイブがオンラインで公開されています。こちらは初年度のメッセンジャーのアーカイブです。
https://raw.githubusercontent.com/Famicoman/cypherpunks-mailing-list-archives/master/cryptome.org/cyp-1992.txt

エリック・ヒューズ、ティモシー・C・メイ、ジョン・ギルモアの3人がWired誌をフロントページで紹介。

ジョン・ギルモアの悪巧み
ギルモアは会社を経営しながら、暗号反逆者の集いを企画する一方で、NSAを困らせるという別の趣味に没頭していました。彼はNSAと裁判で争っていましたが、またしてもサイファーパンクに勝利を収めました。

その年の初めの1991年6月、彼はウィリアム・フリードマンという暗号解読者が書いたある本の存在を知りました。彼は、NSAの前身である米国信号情報局(US Signal Intelligence Service)の創設者です。フリードマンの著作のうち2巻を読んだ後、ギルモアは残りの4巻が機密扱いであることに気がつきました。ギルモアは機密扱いを解除してくれるよう頼みました。しかし、彼らはノーと言いました。

これはギルモアが面倒くさい人間だかったからではなく、ギルモアがNSAの設立文書のひとつを偶然見つけてしまったからでした。好奇心旺盛なギルモアは、それらを探し始め、友人からの情報提供でヴァージニア州にたどり着いたのです。まさにNSAが機密扱いにしていた本自体を見つけると、彼はそれらの本を自分宛に郵送しました。

しかし、人生はそれほど単純なものではありませんでした。NSAは、ギルモアにそれらを引き渡すよう要求したのです。しかし、彼は「これは比較的簡単な暗号技術に関する教科書であり、合法的に入手したものだ」と反論しました。ギルモアはメディアにこの状況を伝え、NSAはそのことで一面の見出しに載ってしまった後、ギルモアと書籍の追跡を取りやめました。やがて、この書籍は機密扱いから外されました。NSAは公での批判を避けるため、書籍の公表を断念せざるを得ませんでした。

...では、その苦労の末、ギルモアやサイファーパンクスにとってこの書籍はどんな価値があったのでしょうか?

どうやら何もないようです。ギルモアはNSAに立ち向かい、政府が敗北することを証明したかっただけなのです。ここでギルモア1勝、NSAは1敗です。

PGP 2.0がトラブルに見舞われる
翌1993年初頭、PGPは米国政府の監視下に置かれることになりました。RSAの知的財産権問題でZimmermanに注目が集まり、規制当局が武器輸出管理法違反で刑事捜査を開始したのです。第二次世界大戦以降、暗号は常に軍需品とみなされ、軍需品と同じクラスで管理されていました。当時、世界は石とチョークでできていましたが、90年代には、ソフトウェアとコンピューティングが米国のGDPをリードするようなデジタルな世界に変わっていました。

ジマーマンに裁判の日程が与えられたことで、EFFと一般市民は彼の背後に結集しました。政府に対して、彼は政治的な演出として、PGPのソースコードのコピーをハードカバーの表紙に印刷しました。本は、言論の自由のもと、憲法修正第1条で保護されていましたが、暗号は非合法でした。暗号のソースコードが載っている本はどうでしょう?

しかし、国民が政府に投げかけた嘲笑の声にもかかわらず、それは明らかでした。ジマーマンは否定することができませんでした。彼は否定できなかったのです、Munitions Actに違反したということを。ソフトウェアエンジニアからヒッピーに転身したジマーマンにとって、状況は厳しいものでした。

"10人の弁護士から、満場一致で絶望的だと言われたのは...トンデモナイことでしたね。最悪の日だった」とジマーマンは言う。

彼のオールスター弁護団は敗北を確信していましたが、そのうちの一人があるアイデアを思いつ来ました。フィル・デュボア(Phil Dubois)は、犯罪者、有名人、そして一般的に愚かなことをする狂った人々を弁護する創造性によってその名声を確立した弁護士でした。デュボアのアイデアは、否定や弁明をする代わりに、攻勢に転じ、政府を自由を脅かす存在として描き出すことでした。これが、ジマーマンの弁護の鍵となります。そして、ジマーマンにとって幸運なことに、政府はすぐに自らの縄に足を踏み入れることになります。

ジマーマン事件の直後、1993年4月、ビル266は別の形で復活していました。
すなわち、
The Clipper Chipです。

The Clipper Chipを沈める
連邦、州、および地方の法執行当局が傍受した音声およびデータ伝送を解読する能力」を可能にするNSAのスパイ装置を発表するのに、これ以上のタイミングはありませんでした。このタイミングで、ジマーマンを支持し、すでに苛立っている国民をさらに怒らせました。

クリッパーチップセット(The clipper chipset)は、データを暗号化する製造規格でした。70年代のDESと同様に、クリントン政権が国の安全保障を管理しようとした試みの一部でした。政府は、いつでもどこでもあらゆるものにアクセスできるようにして、「みんなを守りたい」と思っていただけなのです。そして、70年代のDESがバックドアされていたのではないかという疑念を抱いていたのに対し、クリッパーチップはそれをストレートに表現していました。それはチップの本質的な設計の一部であり、公に発表されました。

DESの56ビットの鍵を少し改良して、80ビットの鍵を使用したのがクリッパーチップでした。また、現在のほとんどの政府プロジェクトと同様に、当時はその仕事の質も信頼できるものでしたよ。(注:皮肉です)

政府に対する健全な不信感と、過去3年間の記憶が新しい中、クリッパー・チップが発表されると、国民はそれに猛烈に反対しました。眠っている熊を起こしたようなものです。

RSAがクリッパー・チップへの幸運を祈っているところです。

大興奮のサイファーパンクの仲間たち
EFFのような公的な市民権団体は、この提案に対して、いかに自由を危険にさらすかについて、冷静な批判をしました。しかし、一般の人々の間では、熱狂とパラノイアが巻き起こりました。オーウェルが描いたディストピア世界「1984年」が実現しようとしていたのです。

主流派の危機感とは対照的に、サイファーパンクはむしろ興奮気味でした。

想像してみてください。あなたは終末の日を予測し、その準備を始めていました。そして、10年後、それは起こりました。確かに、世界は終わりを告げようとしているように見えましたが、世界が混乱し、あなたが以前から持っていた結論に到達するのを見れば、興奮しないわけがないですね。サイファーパンクスは、この日を予言し、予期していたわけです。

"戦争が始まった "とティモシー・C・メイが発表しました。"クリントンやゴアの連中は、ビッグブラザーの熱心な支持者であることを示している。"

ティモシー・C・メイ、エリック・ヒューズ、ジョン・ギルモアをはじめとするサイファーパンクは、ほとんど目眩がするレベルでこのニュースに反対して結集しました。そして、サイファーパンクスは公然とChipに反対し、その撤回を求める議論を盛んに行いましたが、メイを含む他の多くの人々は、実はあまり深刻には考えていませんでした。

彼らは、Chipの設計の脆弱性や、公開鍵暗号が、他の誰かが秘密鍵を持った瞬間に、根本的に使えなくなることを知っていました。Chipのバックドアは、彼らにとってはほとんどジョークのようなレベルの低いものだったのです。

発売日当日、メイはこう書いています。

From: tcmay@netcom.com (ティモシー・C・メイ)
日付 Fri, 16 Apr 93 21:19:43 PDT
宛先: cypherpunks@toad.com
件名 important--we won......not!
Message-ID: <9304170419.AA26923@netcom.netcom.com>
MIME-Version: 1.0
コンテンツタイプ:text/plain

まず、悪いニュースですが、政府は暗号化を管理しようとしています。
政府は暗号化をコントロールすることを望んでいます。
"良いもの "を禁止しようとさえするでしょう。 (それに反対する)ジマーマンその他の人たちが注目されてしまっているのは明らかです。

さて、良いニュースですが、上記のことは全く重要ではないのです。
私たちは勝ったのです。 政府は法的措置を取ろうとするかもしれませんが、それも重要なことではありません。 ここにあるのは、国による
最悪な状況の中でベストを尽くそうとする哀れな試み。 この
驚くべき「方針」の発表により、政府は自らの敗北を暗黙のうちに認めたことになります。

どうして私がここまでの確信を持てているのか?それは、猫はすでに袋から出ているからです。 無料の、ミルスペックのデータ暗号化が今や誰でも簡単に利用できるようになりました。 1年以内に、同等の音声暗号化フリーウェアがそれに加わるでしょう。政府は、もう暗号化という猫を元の袋に戻すことはできません。彼らは自分たちの法案を通すことができるでしょう。 しかし私たちは好きなようにする--そして彼らは私たちを助けてくれることになるでしょう。

そうは言いながらも、彼らはCygnus Supportのオフィスで緊急会議を開きました。50人のサイファーパンクがぎっしり詰まった部屋で、政府を破壊し反乱を起こすためのアイデアを出し合ったのです。

映画『ファイトクラブ』でタイラー・ダーデンが課題を配るのと同じように、サイファーパンクスは「Intel INside」と書かれたパロディステッカーを印刷し、もともとメイが冗談でホワイトボードに描いた「Big Brother Inside」を指すコンピューターショップ内に貼り付けました。

米国当局に向けられた扇動的な言葉

また、「Clipperと戦え」と大きく書かれたTシャツをデザインし、中にはメイの「クリプト・アナーキスト宣言」のセリフが入ったものもありました。

ホワイトフィールド・ディフは、このClipper Chipのチャプターの中で大きな影響力を持ち、後にクリントン政権に有名な公開書簡を書くことになります。

"私的会話権 "は憲法に列挙されていません。当時は、それを防ぐことができるとは誰も考えなかったのでしょう。しかし、今、私たちは、電子的なコミュニケーションが非常に優れており、かつ安価であるため、せいぜいたまに旅行してお互いを訪問する余裕がある人たちの間で、ビジネスや個人の親密な関係が盛んになる世界を目前に控えているのです。このような人々がコミュニケーションのプライバシーを保護する権利を認めなければ、プライバシーが富裕層のみに帰属する世界へと長い一歩を踏み出すことになります。今日のコミュニケーション・セキュリティに関する決定が、明日の社会のあり方を決めるのです。"

翌1994年の初め、40人の専門家、業界リーダー、学者からなる全国協議会は、クリントン政権に公開書簡を書き、Clipper案の撤回を求めました。この40人のグループには、以下のメンバーが含まれています。

  • 公開鍵暗号の生みの親である3人全員。マーティン・ヘルマン、ホイットフィールド・ディフィー、ラルフ・メルクル

  • RSA暗号の3人の生みの親の一人、ロナルド・リベスト氏

  • Digicash創業者 David Chaum氏

  • フィリップ・ジマーマン氏(PGPの開発者)

"Clipper提案 "は採用されるべきではないのです。この提案と関連する規格が進めば、たとえ任意であっても、プライバシー保護は低下し、技術革新は遅れ、政府の説明責任は低下し、国の通信インフラの開発を成功させるために必要な開放性は脅かされると考えています"

政府の"心配ない、私たちがカバーする"
翌年の1995年5月、NSAはついに対応に出ました。NSAは一歩も譲らず、かなり無意味なプレスリリースで、Chipの安全性を世間に保証しようとしました。

1994年 ビルさん、鋭いですね。

「Clipper "アルゴリズムの暗号強度は非常に高く、注目されるべきものです。AT&T TSD 3600デバイスや他の類似デバイスに関して、これらのベンダーはほとんどDES暗号化を採用しています。DES暗号化は、56ビットの鍵情報の使用に基づいています。「Clipper」は、80ビットの鍵に基づくアルゴリズムを採用しています。24ビットしか長くないですが、「Clipper」式の暗号化では1600万倍の順列が得られるため、幾何級数的に復号化が難しくなりまます。この事実は、暗号化の方法論と決定的に相反するものであり、"Clipper "暗号を魅力的なものにしています」。

1994年になると、通信メーカーのAT&Tがこのチップを使ったハードウェアを作り始めていました。通信会社もこのチップを使い始めていました。しかし、そんな中でも、サイファーパンクスの思想は広く行き渡っていました。チップは商業生産者に解放され、サイファーパンクはすぐにチップの制限されたデザインに目をつけたのです。

マット・ブレイズというAT&Tの組み込みシステムエンジニアは、このチップを製品化するためのテストを担当し、チップを詳細に調べることができることができました。彼は、暗号自体は比較的安全だが、暗号化されたバックドアにアクセスするためのNSAの鍵は16ビットハッシュでしかなく、ブルートフォースできることを発見しました。

ブレイズもまたサイファーパンクであり、ブメーリングリストの一員でもあったことが分かりました。彼の発見後すぐに、Clipper Chiptは政府によって、また商業的な生産者によって実用的でないと判断され、廃棄されました。

この辺りからいよいよ潮目が変わってきたと言えるでしょう。

翌年もサイファーパンクの取り組みは続き、一連の法廷闘争へと移行していくことになるのです...。

カーン対アメリカ
クリッパーチップの脆弱性が公表された直後、フィリップ・R・カーンというプログラマーが、暗号を軍需品とする政府の分類に異議を唱えるために立ち上がりました。彼は、暗号化アルゴリズムのソースコードが掲載された書籍の査定を命じた。しかし、この本が軍需品に該当しないことが判明しました。

カーンは引き続き、本の中に詳しく書かれているソースコードが入ったCDディスクの再査定を依頼しました。しかし、それを証明することができず、軍需品法に該当することになりました。ソースコードが入っている媒体によって悪意が生じる可能性があるかどうかで判断されます。しかし、結果的に彼の努力は無駄にはなりませんでした。

バーンスタイン対米国
翌1995年、カーンの事件は、新たな挑戦のきっかけとなりました。バークレー校のダニエル・J・バーンスタインという学生が、暗号化プロトコルのソースコードとともに論文を発表しようとし、その発表を通じて、北カリフォルニアの連邦裁判所で軍需品法に異議を唱えたのです。裁判所は、「Karn vs. United States」という判例に基づき、彼の論文に含まれるソースコードは、憲法修正第1条の下で保護される言論であるという判決を下しました。カーンの裁判では、ソースコードのテキスト形式は軍需品法の適用外とされていましたが、バーンスタインの裁判では、憲法修正第1条の言論の自由で保護されることが証明されました。パズルのピースが少しずつ集まってきました。

ユンガー vs. アメリカ
次はピーター・ユンガーが軍需品法に挑戦することになります。彼は法学部の教授で、第一原理から教えることを好み、学生に勉強だけでなく、探求した概念で遊ぶことを望んでいました。ある講座で、暗号化プログラムを教材に取り入れたところ、それが暗号の輸出として公式に認められたため、米国以外の外国人の受講を制限されることになりました。そのため、教壇に立つことができなくなった彼は、軍需法が憲法修正第1条に違反するとして、軍需法への反対を表明しました。

カーンとバーンスタインの最近の事例を活用したことで、ユンガーのケースは後に1999年の後半に勝利を収め、ソフトウェアが憲法修正第1条でどのように保護されるかを結論づけることになります。しかし、ユンガーの最初の挑戦の直後、クリントン政権は敗北を認めました。(ユンガー氏の裁判は、その後、終結することになります)。

1996年10月12日、ビル・クリントン大統領は大統領令13026号に署名しました。暗号は正式に軍需品リストから削除され、軽度の管理スケジュールに入れられました。暗号技術の輸出は、もはや禁止されていたのです。

この命令によって、ジマーマンのケースも、輸出の結果が重みを持たなくなり、棄却されることになりました。戦いに勝利したのです。しかし、戦いはこれで終わったのでしょうか。いいえ。

ヘルマン、ディフィー、メルクルから一転して
その後、1998年に暗号をめぐる残りの裁判がようやく終結した頃、ギルモアは、将来の暗号技術に関する政府の主張と関与を完全に破壊するために、さらに研究を進めることにしました。

サイファーパンクのコミュニティは、DESに狙いを定めていました。

DESは、もともとは1976年に発表された、商用利用を前提に提供された暗号化規格です。これはMartin HellmanとWhitfield Diffieが反対していたもので、公開鍵暗号の公開のきっかけとなったものです。DESに対する彼らの批判の一つは、その56ビットの鍵が理論的には総当たり攻撃に弱いということでしたが、70年代当時、総当たり攻撃は利用可能な計算能力の程度では実現不可能と考えられていました。

しかし、1998年の今、それは別の話でした。その年の暮れ、RSA Data Security社は、DESで保護されたメッセージを解読できる者を競う懸賞金を発表しました。

解読は5ヶ月で完了しました。さらに1万ドルの賞金をかけ、より早く、よりうまく解けるかどうかを検証しました。最初の挑戦で失敗したギルモアは、ビジネスで成功していたこともあり、ポール・コーチャーという暗号解読者とともに挑戦することになりました。彼は、公開鍵の発明者3人のうちの1人であるマーティン・ヘルマンの下で働き、その訓練を受けていた人です。歴史を一周するミッションにふさわしく、ギルモアとコーチャーは222,000ドルをかけて「Deep Crack」と呼ばれるコンピュータを製作しました。

56時間以内にDESは解読(Crack)されました。

ポール・コッハーと彼の「Deep Crack」

約20年間の論争の末、ついにDESは破られ、やがて正式に廃止が宣言されました。

2000年になると、暗号をめぐるすべての制限や規制が政府によって取り除かれました。

オープンソースの暗号は合法であり、許可されていました。

90年代初頭、政府が人々に関心を持たせる理由を与えるまで、世界は暗号の位置づけをよく分かっていませんでした。

サイファーパンクスは戦い、勝利しました。彼らは、暗号技術を通じて個人のプライバシーと自由の権利を守るために戦ったのです。彼らは、TORやディープウェブの台頭、トレントや海賊版、ウィキリークスや透明性、そしてもっと重要なこととして、その痕跡を残して2000年代を暴れ回ったのです。Bitcoinと暗号通貨です。

次回第4回は、TORの誕生、Bit Torrent、Wikileaks、Bitcoinの誕生を探ります。

1991年のジョン・ペリー・ギルモアの写真 - Rest in Peace(1947年10月3日~2018年2月7日)。
ミッチ・ケーパーに耳を傾けるジョン・ペリー・バーロウ(1991年)
Bill Gates with Mitch Kapor Co-founder of the EFF (Electronic Frontier Foundation) in 1986
John Gilmore, Co-founder of the EFF and Cypherpunks (Late 90s)
エリック・ヒューズ(サイファーパンクス共同創設者
Timothy C. May, Co-founder of the Cypherpunks
ティモシー・C・メイ氏、2017年に開催された最近の暗号学会にスカイプ参加
Phil Zimmerman, creator of PGP
Ralph Merkle of the left, Whitfield Diffie in the Middle, Martin Hellman on the right

PGPを手がけ、サイファーパンクの記念碑的存在であった開発者、ハル・フィニー。彼は2000年代に入り、偉大な人物となリマス。2014年、ALSで逝去。安らかにお眠りください(1956年5月4日~2014年8月28日)。

2000年代の終わりは、一つの時代の終わりを告げるものした。物事はまだ始まったばかりでした。第4部 "ニュー・ミレニアム"はhttps://pet3rpan.medium.com/before-bitcoin-pt-4-00s-new-millenium-426d6e3dcb1aから。


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