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短編小説『in the springtime of my life』

「私のこと好き?」

耳元でそう優しく囁きながら、彼女は俺の太ももに、そっとその白い指先を這わせた。

彼女の甘い匂いが、鼻の奥をくすぐる。

何度も妄想し、味わった、七つ年上の沙織さんのその妖艶なからだが、今、現実のものとして俺の手の届くところにある。

スレンダーな彼女の小ぶりな胸を、ブラウスの上から包み込むように触る。

すると、わずかに開かれた彼女の薄紅色の唇から、吐息のような短いため息が漏れだした。

彼女の唇に唇をかさね、舌と舌とを絡ませる。ねっとりと混ざり合った濃厚なものが、これからの始まりを告げたその時だった。

玄関のドアが乱暴に開いた次の瞬間、大声で叫ぶ女の声。

そう、俺の姉貴、〈理依〉だ。
俺は2DKのアパートに姉貴とふたりで住んでいる。

「コウヘイっ!コウヘーイッ!リエさまのお帰りだーっ!」

また、ベロンベロンに酔っぱらって帰って来やがった。

「水くれっ!みーずーっ!」

〈沙織〉さんは、姉貴の同僚で、同じ営業事務の仕事をしている。

彼女とは、先週の姉貴の誕生日を、ここで他の同僚たち3人と祝ってくれた時に初めて出会ったばかりだった。

今夜は姉貴に相談があって訪ねて来ていた。しかし、あいにく姉貴が不在で、どちらともなく、いつの間にかそういう流れになっていた。

姉貴は、今夜は彼氏の所にお泊まりのはずだったのだが。

また、何かやらかしたのか?

「はい、姉さん。水......」
「おっ!ありがとさんサン産婆のサンバッ!」

何が面白いのか、これは酔っぱらった時の姉貴の口癖だ。今どき産婆なんて単語、若い連中は知らないぞ。

乱れた服を整えて、俺の部屋から出てきた沙織さんの顔を見ると、

「あっ!サオリちゃ~ん、来てたんだ。話...聞いてよ~っ!ヒクッ、ヒクッ。ウェ~ン......」

今度はものすごい勢いでの大号泣が始まった。
俺の姉貴は、泣いても、笑っても、怒っても、いちいちリアクションが大きい。

もちろん、黙っていることなどほとんどない。

寝ているときも、イビキ、歯ぎしり、寝ごとのオンパレード。これじゃ、誰が嫁にもらってくれるというのだ。

俺は玄関先で足を投げだして眠りこけようとする姉貴を、部屋まで引きずって行き、上着だけ脱がせベッドに寝かしつけた。

姉貴はしばらくの間、今日の出来事を沙織さんに話して聞かせた。

俺は姉貴に見えないように、沙織さんとブランケットの下で手と手をつないで、その話を姉貴が眠むりに落ちるまで、彼女の横顔を見つめながら聴いていた。

姉貴の話によると、彼氏の部屋でエッチをしていたところに、突然、知らない女が合鍵を使って乱入してきたという。

いきなり、「この泥棒猫っ!」そう叫ばれ、その女に頭を叩かれた姉貴は、そのバッグを女から奪い取り、逆にそれがズタボロになるまで女を殴りつけた。

その女は彼氏の本命の彼女だったという。つまり、姉貴は遊ばれていたのだ。

その時の姉貴の鬼のような形相を見て、ビビった彼氏は、本命の彼女をかばって、すっぽんポンの裸の姉貴に向かって、

「おまえみたいな暴力デカ女は嫌いだ!出ていけ」とほざいたらしい。

あちゃ~っ!やっちゃったか。
俺の姉貴はデカいと言われるのが一番嫌いなのだ。

その言葉に逆上した姉貴は、彼氏に平手うちの連打、グーパンチ、とどめにスリーパーホールドで失神させた。

その様子を呆然と床に座って見つめていた本命の彼女を睨み付けると、彼氏からプレゼントにもらったネックレスを引きちぎり、彼女に投げつけたという。

相変わらず、凄まじい女だ。

別に、学生時代にヤンチャをしていたとかそういうことは全くない。

ただ、小さい頃から男まさりでプロレス好きで、俺はその餌食になっていた。
身長178cm、スレンダーだが骨太だ。

普段は、話し方は優しく、身のこなしはおっとりしているので、他人に対しての威圧感などはあまりない。

沙織さんが言うには、俺の姉貴は、お得意さんからも、同僚たちからも、明るくて優しい、と人気があるらしい。

姉貴が眠りに落ち、イビキ、歯ぎしり、寝ごとが始まったのを見届けると、沙織さんは、「すごいねお姉さん」と苦笑いを浮かべる。

「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
そう言って、玄関へ向かった。

「送っていきます」
と一緒に出ようとした俺を遮り、

「公平くん。また、今度ね」
ウインクをすると、深夜の街の中へと姿を消した。



俺は午前0時過ぎ、いつものように仕事帰り、商店街のアーケードでギターをかき鳴らしながら唄っていた。

「公平くん、久しぶり。元気だった?」

1曲を唄い終えると、満面の笑みを湛えた沙織さんが目の前に佇んでいた。たまたま、通りかかったらしい。

何人かいた俺の唄をいつも楽しみに聴いてくれる人たちも、俺と彼女が親しく話し始めたのを見ると、気を利かせてくれて、いつの間にかいなくなっていた。

ギターをケースにおさめながら、沙織さんの柔らかな、それでいて凛とした、久しぶりに聞くその声に耳を傾ける。

「あれから、お姉さんどうしてる?」

あの後すぐ、姉貴は、ある営業マンの事務員に対する度重なる傲慢な態度に、ついに堪忍袋の緒が切れて、皆の前でその男を罵倒した。

その男もそう言われて黙っちゃいなかった。

「からだばかりか、態度もでかいんだよ!このデカ女!」と言い返したという。

姉貴にとっての地雷を踏んだその男の胸ぐらを掴むと、姉貴はまわりの制止もふりきって、往復ビンタの連打、グーパンチ、とどめにお得意のスリーパーホールドで、ものの10秒足らずで失神させた。

その男は、気を失ったばかりか失禁し、それ以後、陰でしょんべんたれと噂され、事務員の皆に横柄な態度を取ることがなくなったらしい。

姉貴は、もちろん、すぐに自主退職させられた。
刑事事件にならなかっただけでもめっけもんだ。

その後すぐ、姉貴は実家に戻り、高校の同窓会で、久しぶりに再会した田舎の幼なじみとスピード結婚した。

沙織さんと会ったあの夜から半年が経っていた。

「沙織さんは、まだ同じ会社にお勤めですか?」
「今は別の仕事している」
「どんなお仕事?」
「うん、サービス業......」

少し口ごもった彼女に、俺はそれ以上聞かなかった。

真夜中、シャッターの閉まったアーケード街をふたりで並んで歩いていると、沙織さんは そっと俺のの手を取り恋人つなぎをしてきた。

俺も彼女の手をギュッと握りかえす。

秋の匂いを纏った一陣の風が、ふたりの足もとを軽やかに通りすぎた。

「どこか、喫茶店にでも入ります?」
「うん...喫茶店じゃなくて......」

俺が覗き込んだ彼女のその瞳は、明らかに俺を誘っていた。

「それじゃあ......ホテルに行きます?」

勇気を振り絞って、そう言葉にすると、「今、どこに住んでいるの?」と訊いてきた。

この時、俺はアーケードを抜けた閑静な通りにある古いお屋敷で、間借りをさせてもらっていた。
姉貴が突然実家に帰ったからだ。
家賃は月1万円だった。

「そこに行ってみたいな」

彼女は、興味津々で瞳を輝かせている。

アーケード街を通りすぎて古い家が立ち並ぶ 一角にある俺の住まいまでゆっくりと歩いて行く。

「ここなんだね...なんか幽霊が出そうだね」

通りに面した俺の部屋を下から見上げて、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。

足音を立てないように注意しながら、階段を上がり部屋に入る。
何しろこの部屋は、となりと襖を一枚隔てているだけ。
そこは開かないようにしてあるのだが、となりの物音はうるさいくらいによく聞こえる。

六畳一間に敷きっぱなしにしてある布団を片付け ようとすると、沙織さんは「そのままでいいよ」と部屋に入るなり、いきなり俺を押し倒してきた。

彼女のその細長い舌は、何か別の生き物のように俺の舌にねっとりと絡みついてくる。

ああ、懐かしい沙織さんの匂いだ。

あの時、姉貴が帰ってこなければ......。今夜こそはという思いは強かった。

彼女は立ち上がると、蛍光灯のひもを引き、部屋の明かりを消した。
そして、あっという間に下着だけの姿になった。

俺もあわてて彼女に続く。

俺をそのまま立たせて、彼女は俺のトランクスの上から優しくキスをしてきた。

俺はもうそれだけでイってしまいそうになるぐらい元気になっていた。

優しく布団の上にねかせると、仰向けにした彼女の下着の少し窪んだところを指先でなぞっていく。

少し湿り気を帯びた、柔らかなものを確かめながら指先をすべらせる。

俺が彼女の下着に両手をかけた、その時だった。

「あっ!」

沙織さんが驚きの声を上げて襖を指さした。その瞬間、俺もその方向を振り返った。一瞬の光を残して、その何かはとなりの部屋の暗闇の中へ溶け込んでいった。

それは、通りに面した半開きのレースのカーテン越しに差し込む月の明かりに照らされた人の目玉だった。

そう、隣の住民が、襖の隙間から覗いていたのだ。

「沙織さん、ちょっと待って」

襖を覗き込む。何の音もしない。
気づかれたと思ったお隣さんは、暗闇のなかで息を潜めていた。

俺は、怒る気にもなれず、それどころか申し訳ない気持ちで一杯だった。
こんな、音がだだ漏れの間借りの部屋でエッチをしようだなんて、それこそ、どうぞ覗いてくださいと言っているみたいなものだ。

それからは、さすがに続きをする気にはなれず、俺たちふたりは服を着ると、もと来たアーケードを戻り、彼女の家まで歩くことにした。

「寄ってく?」と誘われたが、もう時間も午前2時を過ぎていた。

「いや、今夜はもういいです」

すっかりそういう気も失せていた。家もわかったのでいつでも来られるし。

「今度、日を改めて来てもいいですか」
「もちろん、いつでも来て。ここの5階のあの部屋だから」

結局、この日も何も出来ず終いだった。 

俺はその夜、彼女の夢をみた。



それから一週間ほどして沙織さんを食事に誘った。
最近、海鮮料理でかなり人気のレストランだった。

お互いに、この半年間で起こったことを詳しく話しながら、人気に違わぬ料理に舌鼓を打ち、食事のあと彼女の家へと向かう。

二度あることは三度ある。

俺たちはそういう予感がしていた。

部屋に入るなり、彼女に手を引かれてベッドのある部屋へと連れていかれる。

お互いにさっさと下着だけになり、ベッドになだれ込んだ。

夢にまでみた、沙織さんの甘い香りが俺の男を刺激する。

やっと...やっとだ!

俺は心の中でそうつぶやきながら、彼女の柔らかい唇を押し開いていく。

彼女の下着に手を伸ばしたその時だった。

「ジリジリジリリーン、ジリジリジリリーン、ジリジリジリリーン」

突然けたたましい音が鳴り始めた。

非常ベルの音だった。

俺はもうヤリたくてしょうがない。そんなことには気にも留めずに、彼女のパンティーを脱がそうとする。

「待って。わたし、ここに五年以上住んでいるけど、非常ベルが鳴ったの初めてだ。たぶん、イタズラとかじゃあなくて、火事かも。早く逃げないと!」

彼女は俺の両手をふりはらうと、服をあわてて着始めた。

俺も後ろ髪を引かれながら、泣く泣く服を着る。トホホ......。

非常階段を使って1階まで下りる。
建物の前には、すでにかなりの人たちが集まっていた。
みんなマンションを見上げている。

「どこだよ。どこが鳴ってるんだ?どうなっている?」

マンションの住人はお互いに情報を交換している。

誰かが呼んだのだろう、それからすぐに消防車が来て、建物の中に確認に入った。

その結果判明したことは、一階のエントランス内の非常ベルを、誰かが意図的に押したみたいだった。火災ではなかった。


「ミキちゃん?やっぱりミキちゃんだ」

俺の背後から突然男の声がした。

その声にわずかに反応した沙織さんは、「はぁ......」短くため息をつくと、その中年親父に顔を向け、

「お久しぶりです。お元気ですか?」

明らかなつくり笑いを浮かべた。

「あのさぁ......今度のしゅっき......」
「今、連れがいるんで。また、今度」

そう言って、話を続けようとした男をさえぎり、会釈をすると、俺の手を引いてその男から遠ざかった。


「何なんだろうね、これ?たぶん神様かどうかわかんないけど、私たちってそういう関係になったらダメだって誰かが言っている気がする」

立ち止まって俺に向き直ると、沙織さんは、真剣な表情できっぱりとそう言った。

「そうだね、俺もそう思う。たぶん、また似たようなことが起こると思う。これより酷いことが起こるかも知れない。俺たち...縁があるのかないのかわかんないね。けれど、俺、沙織さんにすごく惹かれていた」
「わたしも......」

彼女はそう言うと、寂しそうに俯いた。
フッと肩でひとつ息をつくと、顔を上げて、俺の瞳を真っ直ぐに見た。
そして、消え入るような声で呟いた。

「じゃあ、私たちこれで......」
「そうだね。終わりにしよう」

二人とも同じ気持ちだった。

「元気で、公平くん」
「お元気で、沙織さん」

俺たちは、その場でそう言葉を交わした。

俺は、彼女に軽くバイバイと手を振ると、俺を睨むように見つめ続ける男、消防車の忙しない点滅、未だに人びとのざわめきが残るその場をあとにした。

俺はその時十八歳で、まだまだ子供だった。
ただ、沙織さんの肉体が欲しかっただけだったのかもしれない。

その後、俺たちは二度と会うことはなかった。

俺はこの後二週間ほどして、間借りしていた部屋を引っ越した。
沙織さんの電話番号は知ってはいたが、連絡をとることもなかった。

それ以前に、もう会うつもりもなかった。

本当に何かとんでもないことが起こりそうな気がしたからだ。

人との縁っていうのは本当に不思議なものだと思う。

出会ったその日のうちにそういう関係になる人もいるだろう。
しかし、俺たちみたいにお互いに強く望んでも結ばれないこともある。

彼女は、決して忘れることのできない、ある意味特別な女性として、俺の記憶の片隅に眠っている。

何年かに一度くらい、たま~に、もし、最後まで思いを遂げていたらどうなったていたんだろうか?なんてことも考える。

もしかしたら、結婚して幸せな家庭を築いていたんだろうか?

それとも泥沼の愛憎劇を繰り広げて、周りに迷惑をかけて、とんでもない事件を起こしていたんだろうか?

今、俺が思うのは、彼女にはどんな形であれ、幸せな日々を送っていて欲しい。

それだけを願う。





けれど、一度だけでも......。
俺って、なんでこんなに未練がましいんだろう?
しっかりしろ、俺!



最後までお読みいただき、ありがとうございます。





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