短編小説『死出の旅は猫と道連れ』
「あたしよ、あたし! 覚えてる? トシ……」
その声で目が覚めた。一匹の猫が俺の顔を覗きこみながら、ひとの言葉で話しかけている。
「……」
持病が悪化して、入院してから一週間も経たないある夜、意識が朦朧としてきたと思ったら、看護師や医者たちがあわてて駆けつけてきた。
そのうち、ピーッという平たい機械音が鳴り響き、辺りは静かになった。
そして、いま俺はここにいる。
「ダメよ、トシ。立ち上がったら、川に落ちちゃう」
その声にいったん立ち上がろうとした腰を下ろし、その場に座り込んだ。小舟の上だった。舟は川の流れにその身をまかせてゆっくり進んでいく。舟には俺とこの猫しか乗っていなかった。
これは、夢なんだろうか? たしか……俺は死んだはずじゃなかったっけ。
「えーっ、あたしのこと忘れたの? まったくひどいなあ……」
俺が考えごとをしていることなどまったくお構いなしに、この猫は、本当にがっかりしたように肩を落として深くため息をついた。
「ラックよ。あの風呂好きのラック!」
「ラック?……」
「そう、これで思い出せるでしょ?」
腰をかがめて猫の顔を見ようとした俺の鼻先に、自らをラックと名乗るその猫は、右前足の一本爪を突きつけた。
「こ、この一本爪は……」
そのかぎ爪には確かに見覚えがあった。俺が中高生のころ、親父がやっていた温泉旅館で飼っていた風呂好きの猫のラックの右前足にはまったく同じように爪が一本しかなかった。だからか、ラックは木登りが苦手だった。その代わりかどうかはわからないが、大浴場の湯船のなかでくるくる回りながら泳ぐのが大好きな猫だった。その姿を見て、お客さんたちは嬉しそうに驚いていたものだ。
そういえば、ラックはこんな毛並みだったような気もする。
「そうか、そうだよね。あれから何年経ったっけ? もう五十年以上だもんね。覚えているわけないか……」
「……覚えているけど、でもこうやって話したことなんて一度もなかったし」
「あたしは、話しているつもりだったけどね。もちろん猫語でだけど……」
「猫語なんか俺にわかるわけないよ」
「そりゃそうだよね」
「けど、ラックのことは思い出したよ」
「思い出してくれたの? 本当に?」
「ああ、本当だ」
「よかった! あたし、トシにまた会えて嬉しいよ」
「俺も嬉しいよ、ラック」
話していたら、この猫、ラックのことをだんだん思い出してきた。あの当時、俺にとってラックは、ただの飼い猫ではなく、いちばんの友だちだったのだ。
ラックはある日突然俺の前から姿を消した。
猫は飼い主に弱った姿を見せたくないから死ぬ前に姿を消す、とか、猫は誇り高い生き物だから最期はひとりで死を迎える、とかいわれていた。
だから、ラックの姿が見えなくなってから一週間ほどは必死に探した。そうやって待ち続けたあと、姿を現さないラックに、ラックは死んだんだな、と理解した。それでも心のどこかでは、いつかひょっこり帰ってくるかもしれない、という微かな期待を抱いていたのも事実だ。
あれから何十年も経ったが、これまでに出会った猫たちのなかで、ときおり思い出すのはこのラックだけだった。
もちろん俺は結婚もしたし、何人もの女性たちとも付き合った。けれど、どういうわけか、懐かしく思い出すのはこのラックのことばかりだった。肌も心も触れ合った人間の女より、このメス猫のラックのほうが、俺にとっては誰よりも忘れられない存在だったのだ。
「ラックは俺の前から姿を消したあと死んだのか? ラックの子どもたちを残して?」
「いやね、トシ。死ぬつもりなんてなかったわよ。あのとき、あたしはからだの具合が悪くって、お乳もあんまり出なかったでしょ? それに、トシがあたしの代わりに子猫たちの面倒を見ていてくれたじゃない。だから、からだの調子がよくなるまでひとりで過ごそうと思ったのよ。そしたら、いつの間にか、ね……」
「いつの間にか死んじゃったんだな」
「そういうこと。さあ、起きようと思ったら死んでたみたいな……」
「そうだったんだ……。ところで、ラック。俺って死んだのかな」
「うん、死んでる。そうじゃなきゃ、あたしはトシに会えなかったんだから」
「やっぱり、そうなんだな……」
「そんな悲しそうな顔しないでよ! せっかく、こうやってまた会えたのに……笑ってよ! あたしがどれだけ長い間、トシのことを待っていたと思うの?」
「そんなに長く、俺のことを待っていてくれたのか? なんで?」
「トシって昔からそういうところあるよね」
「そういうところって?」
「だから、そういう鈍感なところよ! さっきもいったじゃない。ただ、トシに会いたかったからよ」
「それは嬉しいけど、ラックは生まれ変わったりとかはできなかったの?」
「だって、生まれ変わったら、トシとの思い出をすべて忘れてしまうから……あたしはそれが嫌だったのよ」
「なんか……本当にありがとう、ラック」
「でも、本当に久しぶりだよね。ね、トシの膝の上に乗っていい?」
「ああ、もちろん」
ラックは、とんっ! と俺の膝の上に飛び乗った。その拍子に小舟は左右に少し揺れた。大きな川はゆったりと流れている。
「トシ、かなり太った? それに、おじいさん臭いし」
「そりゃ、しょうがないよ。だって、俺ってもう七十過ぎのクソジジイだよ。髪もこんなに薄くなったし、シミもシワもすごいし」
ラックは俺の顔を下からまじまじと見上げている。
「確かに、信じられないくらいにおじいさんになっちゃったけど、トシの魂はなんにも変わってないよ。あたしが会いたかったトシのまんまだよ。よかった、魂が穢れてなくて」
「……なんか、ありがとう、ラック」
久しぶりに撫でるラックのからだの感触は、なんだかすごく懐かしく、温かい。
「ラック、ところでこの舟ってどこへ向かっているの?」
漠然とその答えはわかっていたが、訊かずにはいられなかった。船頭もいないこの舟は、たぶん、三途の川の渡し舟に違いない。ただ、俺が知っているのとは少し違い、川を渡るのではなく、川を上っているのだ。奇妙なことにこの川は、上流に向かって流れていた。
「トシが行くべきところよ」
「俺が行くべきところ? それってどこだよ?」
ラックは少し困ったような顔をした。そして、はたと何かを思い出したような顔つきで、俺の膝から降りると、向き直った。
「そうだ、トシ。あたしの子どもたちはあれからどうなったの?」
そう訊かれて、俺は困った。たしか、ラックの子どもたちは数匹いたはずだが、その全部を俺は覚えていない。覚えていないどころか、二十年近く生きた、〈カツレ〉というキジトラのオス猫の名前以外は、名前どころかオス猫が何匹、メス猫が何匹いたのかすらも、思い出せなかった。なんと、薄情な俺。
「すまない、ラック。カツレという猫が二十年近く生きたということだけしか思い出せないんだ。本当にすまない」
「別に謝ることはないわよ。だって、トシは幼いころからたくさんの猫たちと出会ってきたんでしょ? そんなのいちいち覚えているわけないじゃない。あたしだって、自分が産んだ子どもたちですらほとんど覚えていないわ。あたしはあの子たちと十日も一緒にいなかったし。そのカツレって、他の子を押しのけてあたしのお乳を独占してたオス猫よね?」
「そうだよ。がっついていたから、方言の〈かつれる〉からつけた名前だったと思う」
「あたしも、あの子のことだけはよく覚えてるわ。あたしのおっぱいがちぎれるんじゃないかっていうくらい激しく吸ってたから。まあ、あれはあの子のせいじゃなかったけどね。あたしのお乳の出が悪かったせいだから」
「カツレはその名前の通り、他の猫たちよりもいっぱい食べてたよ。人間もそうだけど、食が太い生き物は長生きするようだね」
「あたしは少食だったから早く死んじゃったのかしら?」
「さあ、それはわかんないけど……」
「トシってこっちにくるまでに、どれくらいの数の猫ちゃんたちと暮らしたのか覚えてる?」
「かなりの数になるとは思うけど、どれくらいだろう? はっきりとはわかんないや」
「そんなに多けりゃいちいち名前とか、顔とか覚えているほうが変だと思うよ。けど、あたしのことは覚えていたよね。なんでだか、わかる?」
「んーっ……なんでだろう」
「それはね、つまり、トシがあたしのことを、あたしがトシのことを、お互いに心の底から大切に想い合っていたからなのよ。……トシ、あたしのことを忘れないでいてくれて、本当にありがとう」
そういってラックは、天上の天の川が映り込んだ揺れる瞳で俺を見つめた。
「だから、今、あたしがトシのお供をしているっていうわけなの」
ラックは少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「それより、トシ。あれを見て!」
ラックの一本爪が差す川の右側に目を向けると、天の川を従えた満月の灯りの下、何千何万もの途方もない数の牛に跨った大勢のひとたちが大草原を進んでいた。
ラックはいつの間にか人間のように二本足で立っている。
後ろがよく見えるようになのだろうか、互い違いに列をなして進んでいる。
どういうわけか、みんな進行方向とは逆向きに取り付けられた鞍に跨って、遙か後方をじっと見つめていた。
「ラック、あれはなんだ?」
「あれはね、お盆に現世の家族のもとへ帰っていたひとたちが、またあの世へ戻っているのよ」
「お盆に……」
「あのひとたちは、あたしと同じように生まれ変わるのをやめて、あの世に留まっているひとたちなのよ。いつか会いたいひとたちにまた会えるようにね」
「そうなんだ……」
そんな光景を感慨深く眺めていたら、川の左側の草原を右側とは反対の方向へ勢いよく駆け抜ける一頭の馬の姿が見えた。あまりに速すぎてその馬に跨っているひとの表情はよく見えなかったが、なにかしら声を張り上げて一心不乱に手綱を引いているのはわかった。
「ラック、あの馬はなに?」
「ああ、あれね。あれは、あわてて現世の家族のもとへ駆けつけようとしているのよ」
「あれって今から行って間に合うのかな?」
「そんなことあたし知らないわよ。けど、間に合うといいわね。でも、またあわててあの世に戻らないといけないから、馬から牛に乗り換える余裕なんてないと思う。帰りもきっと馬に乗らないといけないわね」
「どうして、忘れちゃったんだろう? 一年に一回のことなのに……」
「んーっ……はっきりとはわかんないけど、あちらからのお迎えがなければ、こちらから勝手に現世に戻ることはできないからね。それもあったのかも……」
「つまり、今の今までお盆の迎え火を誰も焚いてくれなかったってことか」
「そういうことになるわね。あたしもトシに迎え火を焚いてもらって呼ばれたことが一度もなかったから、トシがどうしているのか、気になっても様子を見に行くことができなかったわ。この薄情もの!」
「そ、そんなこといわれたって、猫のラックがお盆に帰ってくるなんて、そんな考えなんて俺の頭にこれっぽっちもなかったから……なんか、ごめん」
「いまさらいいわよ、冗談よ。ちょっといじめてみたかっただけ。それに、トシが他の女の子と仲良くやっているところなんて見ちゃったら、もう待つのをあきらめて、とっとと生まれ変わっていたと思うしね」
ラックは悪戯っぽく微笑んで、ペロッと舌を出した。
「そういや、ラックってよく舌をしまい忘れてたよね」
「えっ! そうだったっけ? あたし覚えてなーい」
ラックはあわてて舌をしまうと、とぼけたように斜め上に視線を向けた。
天上には無数の星々が天の川を流れている。まるでみかんのような満月がぽっかりとそんななかに浮かんでいた。
さっきから線香の匂いと、それに混じって柑橘系の甘い香りが俺の鼻をくすぐっていた。この香りはみかんのものに違いない。しかし、お盆の時期にはまだみかんは出回っていないのに。などと、俺はどうでもいいことを考えていた。
今までまったく気がつかなかったが、牛に跨っているひとたちは、ただ黙って微笑みを浮かべていたり、大声で誰かの名前を呼んでいたり、うつむいて泣いていたりといろいろだ。
白い粉雪みたいなものが、舟の後方へ流れていく。右手を宙にかざしてみる。手のひらに薄くついたその白いものは冷たくはなかった。鼻先で匂いを確かめる。上品な甘い香りがする。舌先で少し舐めてみる。口のなかで柔らかく溶けていった。落雁だ。
高校生のころ、俺が所属していた文芸部の部室を出てすぐのところには茶道部があった。そこの顧問の先生が、俺の姿を見つけると、縁側で、泡立てた抹茶と落雁をよくご馳走してくれたものだった。
俺は無造作にその落雁を口に放り込み、作法にのっとらず、抹茶をごくごくと飲み干すのが常だった。そんな俺に茶道部の部員たちは眉をひそめていたが、その先生は、「作法はもちろん大事だけれど、それよりも心のありようのほうがもっと大切なのよ。あなたはすでにそれができているわ」といって褒めてくれた。本当のところはどうだったのかはわからないが。
「ねえ、トシ。それっておいしいの?」
俺が落雁を口にしてしばらく黙り込んでいたのが気になったのか、ラックは俺の手のなかのものに興味を示した。
「食べてみる?」
ラックの鼻先に手のひらに乗った粉雪のような落雁を差し出す。
「ああ、これはあたしにはよくないものだわ」
ラックはそういってそっぽを向いた。やはり、猫は甘いものは好きではないようだ。
残りの落雁を川のなかへ払い落とすと、ついでに川で手を洗う。
「ラック、ひとつ訊いてもいいかな?」
「なあに、トシ……」
「ラックは何十年もここにいたんだよね。その間、どうしてたの?」
「それ、訊く? うーん、確かにいろんなことはあったけどさ、よく覚えてないんだよね」
「そうなんだ……」
「あっ! トシって今『こんな小さな脳みそじゃそんなになんでもかんでも覚えていられるわけもないな』なんて目であたしを見たでしょ?」
「そ、そんなことないよ……」
す、鋭い。図星だった。
「俺のほうは……」
「待って、トシ。あたしトシがどんな女の子や猫ちゃんと出会って、どんなふうに暮らしてきたか、なんてこと聞きたくもないよ。だって……わかるでしょ?」
「……うん。ラック、ごめん」
それから俺とラックは、俺たちが初めて出会った雨の日のゴミ置き場でのこと。親父が経営していた温泉旅館の、猫の額ほどの広さしかない名ばかりの大浴場でのことなど、いろんな思い出話を続けた。
舟から見渡す景色は、先ほどまでの牛に跨った大勢のひとびとから、色とりどりの花々が咲き乱れる一帯に変わり、赤とんぼや色鮮やかな蝶々たちが戯れる風景が永遠と思えるほど続いていた。
花にあまり詳しくない俺は、それらのなかに、かろうじて、ひまわり、ユリ、カーネーション、そして、りんどうなどの姿を認めることしかできなかった。
そんな穏やかな時間が流れ、やがて舟は誰かに操られているかのように、桟橋に辿り着くと、そこで静かに止まった。
「トシ、降りようか。たぶん、ここが終点だから」
俺がラックにうながされて桟橋に降り立つと、そこには誰の姿もなかった。
いつの間にか、天上にあったはずの天の川も大きなみかんのような満月も姿を消していた。
桟橋それ自体がなんらかの光を発して、漆黒の闇に包まれた辺りを照らしている。
「じゃあね、トシ。もう会うこともないと思うけど、楽しかったわ」
ラックは二本足で立って俺を見上げている。
「ラックはこれからどうするの?」
「……わかんないよ」
「わからないって?」
「あたしの願いはトシにもう一度会いたいってことだったから、それがかなった今、これからどうなるのかなんて、誰に訊いても教えてくれなかったの。だから、わかんないのよ」
「一緒には来られないの?」
「一緒にどこへ行くのよ? トシこそ今からどこへ行くのか知ってるの?」
「いいや、はっきりとは知らないけど。俺、まだラックと別れたくないよ」
「あたしだって……」
「じゃあ、一緒に行こうよ! 俺もひとりじゃ心細いしさ」
俺がそういうと、ラックは辺りをキョロキョロと見回し始めた。
「すみません、誰かいませんか?」
桟橋の周りには漆黒の闇が広がっているばかりだ。誰からもなんの返事もない。
「あたし、トシと一緒に行っていいんですか?」
ラックは泣きそうな声を振り絞って暗闇に問いかける。
バッサバッサバサーッ!
突然、鳥の羽ばたきの音が聞こえたかと思ったら、一羽のカラスが俺とラックの間に滑るように舞い降りた。
「遅くなりまして申し訳ありません。私は、はしと申します。ご苦労さまでした、ラックさん。あの方からのことづてをお伝えに参りました」
カラスはラックに挨拶のお辞儀をして、俺に一瞥をくれたあと、ひとの言葉を話し始めた。
「はい……」
ラックは、二本足で立って、両前足をお腹のところで軽く合わせている。神妙な面持ちで、自らをはしと名乗るそのカラスの言葉に耳を傾けていた。
どうやら死後の世界は、生き物たちが自由に人間の言葉を話せるみたいだ。
「ラックさん。本当に長い間、彼を待ち続けて大変でしたね。あなたがこちらに来たときに伺った願いはこれでかないました。こんな願いをした猫さんは、ラックさん、あなたが初めてでした。あなたがわたしに会ったとき、あなたはまだ三回目の猫生を終えたばかりでしたので、猫であればすぐにでも生まれ変わることができました。しかし、あなたはこの選択をされました。それほどまでに彼に会いたかったのですね」
ひとの言葉を流暢に話すカラスを見ていると、自分のなかに違和感などは微塵もなく、カラスの嘴から綴られる言葉の一つひとつが俺の心のなかに染み渡っていった。
「あなたが望むのであれば、どうぞ彼と一緒に行かれてください。誰に遠慮することなく、新しい人生を全うしてください」
「ありがとうございます」
ラックは今にも泣き出しそうな顔をしている。
「ゴホン、ゴホン……えーっと、以上があの方からのことづてです」
「ありがとうございました、はしさん」
ラックはカラスに深々と頭を下げている。
「では、私はこれで失礼します」
カラスは大役を終えたかのように、俺とラックに深くお辞儀をすると、ひと羽ばたきして闇のなかへ溶け込んでいった。
「ラック、よかったね」
「うん……」
ラックの顔は涙でくしゃくしゃに濡れていた。
「よっこらしょっ、と!」
俺はラックを抱き上げる。
「なに、トシ? あたしってそんなに重くないでしょ。レディに対して失礼じゃない? そのかけ声は!」
そういうラックは涙声で少し震えている。
「ごめん、ごめん。そうじゃなくて、俺ってジジイだから、もう口癖になってるんだよ。ごめんな」
「そうか、トシってもうよぼよぼのおじいさんだもんね。キャハハハハッ」
「そうだけど、なんか腹立つな……」
俺の腕のなかで幸せそうに笑い声を上げるラックは、あのころとまったく変わらない俺のいちばんの友だちだ。もっとも、あのころはミャーンとしか鳴かなかったけど。
「それよりさ、ラック。俺たち、いったいどこへ行けばいいんだろう?」
「とりあえずは、前へ進もうよ」
「だって、行き先がすごく気になるんだけど。まさか、ここから先は地獄行きなんてことはないよな?」
「さあ、どうだろう?」
「知ってるんなら教えてくれよ」
「あたしも知らないよ。けど、あたしとトシが一緒なら、どこへ行っても大丈夫だよ、きっと」
「そうだな。またよろしくな、ラック」
「うん、トシ。こちらこそよろしくね」
桟橋からそのまま真っ直ぐに歩みを進める。河岸の生い茂ったススキのなかに、お日さまを映したような黄色のたんぽぽが風にその身をわずかに揺らしていた。
俺が足を一本踏み出すたびに、暖かい日の光が現れた。後ろを振り返ると黄金に輝く道が俺のあとに続いている。
俺の腕のなかでラックは嬉しそうに俺を見上げている。
しばらく歩くと俺たちは眩いばかりの光に包まれていった。歩みを進めるほどにその光は輝きを増していく。
「あのさ、トシ……」
「なに? ラック……」
「キスしてくんない?」
「キス?……ああ、いつもやってた、あのチューね」
「うん、あれっ!」
「いいけど。ラックって魚臭くないよな?」
「トシ、それってすごく失礼だよ! トシこそ、おじいさん臭いんじゃないの?」
「冗談だよ、ラック……」
そういって俺はラックの顔に唇を近づける。
ラックは目を閉じて、唇を少し尖らせた。
〈了〉
*
最後までお読みいただきありがとございます。