短編小説『おれ、カラス 旅がらす珍道中』
「イタタタッ! やめろよ! いったいなんなんだよ、おまえら? なんで俺を攻撃するんだよ?」
数羽のカラスたちに囲まれて、そのくちばしでからだを突つかれているやまちゃんは、あまりの痛さにたまらず大声を上げました。
そのなかの一羽は、やまちゃんのお尻を執拗に狙っています。
「この野郎、とぼけやがって。俺たちの女に手を出しやがって、ただじゃ置かないからな」
リーダー格らしいカラスが鋭い眼で睨みを利かせています。
その間も、やまちゃんはカラスたちのくちばしで突つかれまくっています。
「だから、痛いって! やめてくれ!」
そこにどこからともなく、はしちゃんが現れました。やまちゃんとカラスたちの間に颯爽と舞い降ります。
「タカちゃん、それに、みんな。ちょっと落ち着いてくれ」
「おお、はしちゃんか。おまえのダチのこいつが、俺たちの女に手を出しやがったんだ。モテると思って調子に乗りやがって、まったくこの野郎はよ!」
「みんなが怒るのはもっともだ。やまちゃんが全部悪い」
そういうと、やまちゃんに向き直ります。
やまちゃんが大変なことになっていると、知り合いのカラスから聞いたはしちゃんは、ここまで急いで駆けつけたのでした。
「やまちゃんの評判、最近よくないよ。なんで急にメスのカラスに目覚めちゃったのかな。ちょっと前までは、人間の女だけに夢中で、カラスなんかには見向きもしなかったじゃないか」
はしちゃんはやまちゃんをカラスたちの攻撃から庇いながら、わざと叱りつけるように怒鳴ります。
「俺が悪いのか? 俺だけが悪いのか? 彼女たちとは合意の上でのことだったはずだ」
やまちゃんはすずと初体験を済ませました。
カラスの姿に戻ったあと、そのときのあまりにも幸せな時間を忘れられず、メスのカラスたちと片っ端からエッチをしまくっていたのです。
とんでもない野郎です。
けれど、どんなにカラスたちとからだを重ねてみても、すずとのあの夢のような幸せな時間には遠く及びませんでした。
「やまちゃん。この件に関しては、やまちゃんがすべて悪い。彼女たちに責任転嫁するなよ」
「はしちゃん……」
さすがのやまちゃんも、はしちゃんからこんなにきっぱりといわれると、返す言葉もありません。
「みんなの気持ちはよくわかる。けど、今日のところはもうこれくらいで勘弁してやってくれないか? これこの通りだ」
はしちゃんは、皆に有無をいわせないような威圧感のある低い声で、深く頭を下げています。
はしちゃんは、カラスの仲間内では一目置かれる存在でした。物知りの上に、情報収集能力がずば抜けて高かったため、どこの地区に行けば上質のエサにありつけるかなんていうことを、ほかのどのカラスよりもよく把握していました。
しかも、そんな情報を独り占めすることなく、惜しげもなくみんなに教えていたからです。
やまちゃんとつるむことが多く、滅多に他のカラスたちと一緒に行動はしないものの、はしちゃんはみんなから慕われ頼られる存在でした。
「しょうがないな。今日のところは、はしちゃんの顔を立てておくよ。やまちゃんよ、もう二度と俺たちの女に手を出すんじゃないぞ。わかったな!」
そういうと、カラスたちは飛び去っていきました。やまちゃんはカラスたちの姿が見えなくなると、ホッとした表情で、はしちゃんに向き直り、頭を下げました。
「ありがとう、はしちゃん。本当に助かったよ」
「いいって、やまちゃん。しかし、まったくひどい有様だな。色男が台無しだ」
やまちゃんは、からだのあちこちをくちばしで突つかれて、羽をむしられて、そこからはうっすらと血が滲んでいます。
「……はしちゃん、俺、旅に出ようと思うんだ。こんな状況じゃ、ここにいるのはちょっとな……」
「うん、そうだね。しばらくここから離れたほうがいいかもしれないな」
「それで、俺さ、サキさんに会いたいんだよ」
「それってサキに会いに九州まで行くってことだよな? やまちゃん、まだ、サキのことが好きなんだな?」
「好きなんだと思う……それを会って確かめたいんだ」
やまちゃんは、もしかしたらサキとはすずと同じような幸せな時間を過ごせるかもしれない、なんてことを考えていました。
とんでもない野郎です。
「わかったよ、やまちゃん。俺が一緒に行ってやるから安心しな」
「ありがとう、はしちゃん」
こうして、やまちゃんとはしちゃんは、遠く九州の地まで旅をすることになったのでした。
旅好きのはしちゃんは日本全国を訪れたことがあります。
やまちゃんにとっては、とても心強い味方です。
*
休み休みじゃないと、カラスたちは一度にそんな長い距離を飛ぶことができません。
一日どんなに頑張って飛び続けても、せいぜい七十キロメートルくらいが関の山でした。
そのあいまあいまに食べ物を探して、なにかを口にしなければなりません。
やまちゃんとはしちゃんは、神奈川県の横浜中華街の上を通り過ぎようとしています。
「なんか、すごくいい匂いがするな、やまちゃん」
「うん、この匂いで俺のお腹がグーって鳴ったよ。なんか、食べようか? はしちゃん」
「そうだね。ひと休みしようか? ずーっと飛び続けて疲れちゃったよ」
やまちゃんたちは、食べ物屋のひさしに降りると、通りを見下ろしました。
ゴミ箱にはしっかりと蓋が閉められていて、食べ物をついばむことができそうにありません。
「おっ! あれ見て。あいつなんか落っことしたよ」
焼き小籠包をひとくちで頬張ろうとした強面の男が、口に入れた瞬間飛び出た熱い肉汁に驚いて、思わず吐き出したものが歩道にポトリと落ちました。
少し齧られた小籠包からは、美味しそうな肉汁が歩道に溢れ出しています。
「歩きながら食べてるとあんなこともよくあるもんさ。まったく行儀の悪いやつだな」
はしちゃんは、自分がものを食べるときにはあまり上品な食べ方ではないのを棚に上げて、この言い草です。
やまちゃんは、ひと羽ばたきして落ちたものをくちばしでさっと拾うと、店のひさしの上に戻り、味わいます。
「これうまいな。もちもちしてる。はしちゃん、これってなに? 俺、食べたことないんだけど。はしちゃんもどうぞ」
やまちゃんはそういって、ちょうど半分を食べると、はしちゃんにすすめます。
「うまいね。これは前に一度食べたことがある」
はしちゃんは、こうやって食べ歩きをしていた観光客が落としたものに、同じようにありついたことがありました。
「ちょっと物足りないけど、ここでこうして待っていても、またいつ誰が落っことしてくれるかわかんないから、もう行こうか?」
「そうだね、やまちゃん。そうしよう」
小腹を満たした二羽は、これからの道中が少し楽しみになってきました。
*
「なんじゃありゃー!」
やまちゃんたちの前方右側に、山頂に雪をいただいた高くそびえる山が見えてきました。
「すっごいでしょ、やまちゃん。俺が知ってる限りでは、これより、高いやつを見たことないよ」
「そうなんだ」
『これが、富士山か……』
やまちゃんの胸が熱くなりました。
「はしちゃん、なんか俺、感動しちゃったよ」
「やまちゃん、その気持ちをいつまでも忘れないでね。俺も最初見たときは、なにか大きなことができそうな気がしたもんだよ」
「大きなことって、なに? 俺たちカラスだよね。いったいなにができるっていうのよ」
「んーっ。人助けとか、犬助けとか、猫助けとか……」
「なんか、助けてばっかりだね、はしちゃん。だけど、俺たちカラスだろ。もし助けようと近寄っても、すっごい顔で追い払われるだけだって。それどころかひどい目に遭わされるかもしれないじゃないか」
「まあ、たしかにそうだね」
そういえば、この前、やまちゃんを助けたな、と、はしちゃんは思いましたが、口には出しませんでした。
「おっ! なんかいい匂いがするっ」
「ああ、これね。ここら辺で有名な食べ物の匂いだよ」
匂いに鈍感なはしちゃんが気づくほどいい匂いです。
はしちゃんたちが飛んでいる下の商店街の老舗鰻屋から、香ばしい匂いが漂ってきました。
『もしかしたら、鰻?』
やまちゃんはすずと一緒に食べた鰻重を思い出しています。
「はしちゃん、あれは食べたことあるの?」
「いや、ないね。あの食べ物の匂いのする串をペロペロって舐めたことがあるくらいだよ。だってあれって、人間たちだってそうそう食べられる代物じゃないみたいだし、あれ自体が残っていることなんてないもんね」
『そうだよな。あんなにうまいもの、完食しないやつのほうが珍しいし』
「串を舐めるだけだなんて、なんか、余計にお腹が空きそうだね」
やまちゃんは細っそい舌を出し入れして、ペロペロする仕草をしています。
「ああ、そのあとが大変だったよ」
「なにがあったの?」
「聞くも涙語るも涙の物語だよ。とにかく散々な目にあったんだから。話し出すと長くなるから、また今度ね」
はしちゃんはよっぽどのことがあったのでしょう。本当にこの件については話したくなさそうです。
「わかったよ、はしちゃん」
「それより、やまちゃん。日も暮れ始めたし、なんか食べてから、今夜はここいらで眠ろうよ」
「そうだね」
*
やまちゃんたちは、茶畑の畦道でうずくまって一晩を過ごしました。どこか安心してからだを休められるところはないか? と探し回りましたが、どこへ行っても、地元のカラスたちに追い払われてしまったのです。
「ああ、おはよう……はしちゃん」
「おはよう! やまちゃん」
はしちゃんは、やまちゃんよりかなり早く目覚めていましたが、ぐっすり眠り込んでいるやまちゃんを起こさないように、辺りを警戒して、そっと寄り添っていました。
「けど、はしちゃん。昨日は散々な目にあったね」
「いやーっ、まったく。なんてところだよここは! おんなじカラス同士、仲良くすればいいのにさ。なんで、あそこまで縄張りにこだわるのかね?」
はしちゃんは呆れ顔です。やまちゃんたちは、この時期にも葉が青々と生い茂る楠の大木で一晩を過ごそうと、そこをネグラとするカラスたちに声をかけました。すると、その瞬間、カラスたちに囲まれて、出ていけ! と凄まれたのです。
千羽を超えるカラスの集団でした。
「えっーと、ジロチョウっていったっけ? すごい数の仲間がいたよね」
「ああ、そのジロチョウの子分の、イシマツっていうやつには呆れたね、やまちゃん」
「あっ! あいつか。親分のジロチョウは、『ゆっくりしていきな』っていってくれたのに。あいつが『よそもんは信用ならねえ、親分の命を狙っているカツゾウの手下にちげえねえ』とかわめいて、結局、追いやられたもんね」
「ああ、あの片目が潰れた、喧嘩っぱやそうな、イシマツな。あいつの顔チョー怖かったよな」
はしちゃんはそういって片目をつぶって見せます。
「ちげえねえ」
「アハハハッ! はしちゃん、そっくりだよ」
イシマツの声真似をしたはしちゃんに、やまちゃんはお腹を抱えて大笑いです。
「あっ! カラスがいるっ!」
突然、女性の大声がしました。
「おっ! 可愛いな」
茶摘み娘の可愛らしい姿を見て、やまちゃんは思わず声を漏らします。
「やまちゃんって、相変わらず人間の女が好きなんだな」
「人間だろうと、カラスだろうと、可愛いもんは可愛いんだよ」
「ちげえねえ」
そういってはしちゃんはまた片目をつぶって見せます。
「アハハハッ! はしちゃん、それもうやめてよっ! ハハハハハッ……」
「ちげえねえ、ちげえねえ。ギャハハハハッ!」
そして、二羽は大笑いしながら、茶畑から飛び立っていきました。
やまちゃんたちがしばらく飛んでいると、サッカーのスタジアムが見えてきました。
「ひとがいっぱいいるな。それにみんな大声で叫んでいるよ」
「あれはサッカーていうやつだよ、はしちゃん」
「やまちゃんってば、いろんなことを知ってるね。いったいどこでどうやって覚えたの?」
「はしちゃん、実は俺、昔は人間だったんだ。でも、とんでもないことをやらかしちゃって、神様ってやつにこんな姿に変えられてしまったんだよ」
「ほんとかよ?」
「うっそピョーン!」
「いい加減にしてよね、やまちゃん」
はしちゃんは、やまちゃんがどこまでほんとのことをいっているのか? と首を傾げています。
*
やまちゃんたちは、愛知県に来ています。
「おっ! やまちゃん、あれなに。もしかして知ってる?」
はしちゃんの視線の先には大仏さまがその姿を現していました。
はしちゃんは、「昔は人間だったんだ」という、やまちゃんを試してやろうと思ったのでした。
もちろん、前にもここに来たことがあるはしちゃんは、それがなんなのかを知っています。
「はしちゃん、あれは大仏っていうやつなんだよ」
「やっぱり知ってるんだね、やまちゃん」
はしちゃんは、やまちゃんがいっていることってほんとなのかも、と思い始めています。
やまちゃんはついこの前まで人間だったころ、プチさんの指導のもと、人として生きるためにいろいろな勉強をしました。
そのおかげで、今ではやまちゃんは、人間界のことについて、はしちゃんが驚くほどいろいろなことを知っています。
「目をつぶっているけど、寝ているのかな?」
はしちゃんは、もうちょっとやまちゃんを試してみようと、こんな質問をします。
「はしちゃん、あれは、瞑想っていうやつをやっているんだよ。もちろんあれは作り物だけどね」
「あたりまえだろ。あんなのがほんとに生きてたら、街中破壊されるって。大変なことになるよ」
「そんなときは、正義のヒーローがどこからともなく現れるもんさ。胸についたやつをピーピーいわせながらさ」
大仏を台座の下から見上げながら、やまちゃんは片羽を空に向かって思いっきり振り上げて、変身のポーズをとっています。
「そうなの? やまちゃん」
「前に一度、子供が観ていたテレビってやつを盗み見たことがあったんだ。そのときは、ガオーガォーって大暴れする大怪獣をその正義のヒーローがボコボコにやっつけてたから」
やまちゃんは実際は盗み見たんではなくて、ポテチを食べながらプチさんと一緒に「そこだっ! やっつけちまえ」などと大声を上げて大はしゃぎしながら観ていたのです。
「俺も、そのテレビってやつを見たことあるけど、そんときは、オバハンがなんかをバリバリってすごい音を立てて食べながら、口と口を吸いあっている男と女を食い入るように見つめてたよ。お尻をボリボリ掻きながらね。やまちゃんも人間の女の子とあんな風に口を吸い合いたいんじゃないの?」
「馬鹿なこといわないでよ。そりゃ、人間の女は、俺は好きだよ。けど見てよ、このくちばしでいったいどうやって、あのキスってやつ? やるのさ。そんな光景を傍から見たら、まるっきりホラーでしょ」
やまちゃんはそういいながら、すずとの甘いひとときを思い出しています。
「いや、できるって。器用なやまちゃんなら大丈夫っしょ。人間の女の子の舌を、ベロベロとそのほっそーい舌で絡め取って……いや、やっぱ怖っ!」
そういうはしちゃんの目は三日月のように細く、目の縁には笑いを堪えきれずに涙が滲んでいます。
「はしちゃん……」
「なに? やまちゃん」
はしちゃんの顔はまだ半笑いです。
「俺さ、まだちょっとしかあの街を離れていないんだけど、なんかすごーく寂しい気分なんだけど」
「まあ、そんな気にもなるんだろうけど。サキに会うんだろ? さあ、頑張って!」
*
それから二日ほどかけて、やまちゃんたちがやってきたのは滋賀県です。
「あっ! あれなに? はしちゃん」
「ちょうど喉も渇いたことだし、ここいらでひと休みしようか? やまちゃん」
「えっ! こんなもの飲めないよね? 喉が大変なことになるって」
「ところが飲めるんだな、これが」
「えっ! 本当に?」
「だよね。俺も他の鳥が飲んでいたのを見て試してみたんだけど、飲めたときはびっくりしたからね。覚えてる、やまちゃん? あのすごく高いやつのところを飛んでいたときに何度か水を飲みに降りたことがあっただろ? あれと同じやつなんだ」
「そうなの? あーっ! 思い出した。琵琶湖ってやつだ」
「そうだね……たしか、そんな名前だったような。それにしても、やまちゃんってほんとによく知ってるね、人間界のこと。しかも、ここに来たこともないんでしょ?」
「まあね。だから、いってるじゃない。俺はもとは人間だったって」
「また、始まったよ。やまちゃんの妄想の暴走が……」
とあきれた口調でいいながらも、はしちゃんはほんとにそうなのかも、と信じ始めています。
「なんかのんびりしたいいところだな。魚か貝かなんかないかな、はしちゃん」
「どうだろうね」
砂浜に降り立って二羽は食べ物を探します。
秋も深まり始めた砂浜には、犬を散歩させている人がまばらに歩いているだけです。そのなかに、レジャーシートを敷いてお弁当を広げている四人の親子連れがいました。
「ダメだよー、湖に入っちゃ!」
小さな女の子が、キャッキャッとはしゃぎ声を上げながら、突然、波打ち際へ駆けていきます。そして、母親は慌ててその子の後を追いかけます。
「ダメだって、そんなものを触っちゃ! あなた、あの子を止めて!」
もうひとりの男の子は、波打ち際に流れ着いた変な形をした物体を触ろうとしています。
「おっ! わかった」
そういって、鮒寿司を肴に、ほろ酔い気分の父親は、おぼつかない足取りでその子を止めようと駆け寄ります。
その光景をちょっと離れたところで見ていたやまちゃんたちの目には、レジャーシートの上に広げられたお弁当の数々が飛び込んできました。
「はしちゃん、チャンスだ。食べ物だ」
「ああ、やまちゃん。行くよーっ!」
二羽はあっという間に、お弁当までたどり着くと、くちばしを突っ込みます。
「うめーな! やまちゃん」
「んぐっ、たまんないね」
やまちゃんたちがお弁当をついばんでいるのに気づいた母親と父親は、それぞれ子供たちを抱えてあわてて戻ってきます。
「やばい、はしちゃん。逃げなきゃ!」
「んぐっ、ま、待って! やまちゃん」
そういって、最後のひとくちとばかりに、はしちゃんがなにかを咥えて飛び立ちました。
「この馬鹿ガラスども」
父親は悔しそうに二羽の後ろ姿を睨みつけています。
しばらく飛んだところで、突然、はしちゃんが苦しみ出し、急降下して、砂浜に降り立ちました。
そして、口の中のものを吐き出します。
「これ、腐ってる。なんで、あいつはこんなものをうまそうに食ってたんだ? 鼻があんまり効かない俺だって、こんなものは食えないよ、臭すぎて」
はしちゃんが吐き出したものは、鮒寿司でした。
「どれ、どれ?」
やまちゃんは、鮒寿司の匂いを嗅いでいます。そして、ひとくち。
「やまちゃん、それ、腐ってるって」
「はしちゃん、うまいじゃないか、これ」
「う、嘘でしょ? やまちゃん、よくそんなもの食べられるね?」
「これ、腐ってるわけじゃないよ、きっと。だって、もしそうなら、あいつもあんなにうまそうに食べないでしょ?」
はしちゃんは、口のなかが気持ち悪いのか、真っ黒な舌を出し入れして、ひたすら吐こうとしています。
どうやら、この鮒寿司、カラスでも、好き嫌いが極端に分かれるみたいです。
*
やまちゃんたちは大阪に来ています。
「はしちゃん、これなんの匂い。すんごくお腹が空いてきた」
「これね。これはあの匂いだよ」
はしちゃんが羽指す先には、舟皿に盛られた熱々のたこ焼きを手に、ハフハフと恐る恐る口に運ぶ、可愛らしい女の子が見えました。
「何度か食ったことあるけど、これはうまい。ほんとにうまい。ただ、食べるときにはかなり気をつけないといけないけどな」
『たこ焼きか……たしかにそうだよな。あれってすんごく熱いからな』
やまちゃんは、すずと一緒に食べた、たこ焼きのことを思い出しています。
猫舌? 鳥舌のやまちゃんのために、すずがフーフーしてくれたことも、やまちゃんにとっては忘れられない大切な思い出です。
「これは意外とおこぼれにあずかりやすいんだ。おっ! さっそくあの外人さん、落っことしたね」
二羽はバッサバッサと地面に落ちたたこ焼きに近づきます。
「やまちゃん、ダメだって、まだ口にしちゃ。火傷するから」
それを咥えようとしたやまちゃんにはしちゃんは待て、と羽で制止します。
「えっ! なんで、まだ食べちゃダメなの?」
お腹が空いていてしょうがなかったやまちゃんは、はしちゃんの言葉に耳を貸さずに、たこ焼きを口にしました。
その瞬間、あまりの熱さにたこ焼きを吐き出すと、バッサバッサと意味もなく羽をばたつかせて、ピョンピョンと飛び跳ね歩きをしています。
辺りの人々は、そんなやまちゃんを驚いた様子で遠巻きに見ています。
「だから、いったのに。やまちゃんはほんとに食いしん坊なんだから」
「熱っつ! なんて熱いんだ。舌を火傷しちゃったよ。まるで、拷問だな」
人間だったときに何度もこんな目に遭ったやまちゃんなのに、たこ焼きの匂いに我慢できず、やっぱり同じことを繰り返してしまったのでした。
「あーっ、うまっ! 口の中が幸せいっぱいだ」
しばらくして、ほどよい加減に冷めた、たこ焼きを口に運びながら、はしちゃんは感嘆の声を上げました。
「あーっ、痛っ! 口の中が大変なことになっちゃった」
やまちゃんは、まだ意味もなく羽をバタつかせています。
たこ焼きを綺麗に平らげると、はしちゃんは、「俺のいうことを聞かないからそんな目に遭うんだよ」と、やまちゃんにそういいながら、冷ややかな視線を送っています。
「もうこんなところ、二度と来るもんかっ!」
やまちゃんはそう吐き捨てると、はしちゃんを置いて、先に飛び立ちました。
*
「こいつ、変な顔してんな。おまけに落ち着きなく、あっち向いたり、こっち向いたり忙しいやつだな」
「やまちゃん、それは作り物だから」
「わかってるよ、そんなこと。ちょっと冗談をいってみただけだよ」
風に吹かれて、あっ向いたりこっち向いたり、屋根の上の風見鶏は、その金属製の冷たい表情を変えることなく風にその身を任せ、くるりくるりとそのからだの向きを変えています。
「ここから眺める景色は最高だな、はしちゃん」
「ああ、ここは俺のお気に入りの場所のひとつなんだよ、やまちゃん」
やまちゃんたちは神戸に来ています。
「さっきすんごい、いい匂いしてたよな。俺さ、思わずその匂いに釣られてそっちのほうへ行きそうになっちゃったよ」
鉄板焼きスタイルのステーキハウスから漂ってきた、熟練のシェフの技で焼き上げられた神戸ビーフの匂いを思い出して、やまちゃんは口の端によだれを垂らしています。
「やまちゃんって匂いに敏感だから、ある意味大変だね。俺なんてそこらへん鈍感だから」
「けどさ、食べ物って味もそうだけど、匂いも重要だよ、それに見た目もね」
やまちゃんは、すずと暮らしていたころにすずが作ってくれた料理、それに自分がすずのためにプチさんから教わった料理をふるまったことを思い出しています。
「見た目って……俺たちカラスが食べるものって、ゴミ箱に捨てられたものか、捕まえてついばむ生きた虫なんかじゃないか? 人間みたいに、お皿に並べて食べることなんてないだろ?」
「ああ、そうだね、はしちゃん。ごめん、変なこといって」
ほんとにやまちゃん、どうしちゃったの? はしちゃんは首を捻っています。
「やまちゃん、話は変わるけど。ここら辺りは樹々も豊かだし、今の時期はちょうど、木の実もたくさんあるし、虫たちを捕まえるのにも苦労しないから」
「そういや、ここら辺ではあんまり変なカラスたちって見かけないな? 昨夜も誰に邪魔されることなく、ぐっすり眠れたしね。きっと治安がいいんだね」
「まあ、よくわかんないけど、邪魔が入らないことはいいことだよね、やまちゃん」
*
兵庫県を出たやまちゃんたちは、岡山、広島、山口、福岡と抜けて、大分に来ています。
「はしちゃん。なんか、ここって、お尻から出るあの匂いがするよ」
「最近、やまちゃんって匂いに敏感だね。俺は全然感じないけどな」
「はしちゃんが鈍感すぎるんだって、街全体が臭いんだって」
「そんなことないだろ」
「臭っさ! きっと、この匂いの素はこれだよ。あの地面から噴き出ている白いやつ見える?」
「ああ、すんごい音立てながら、吹き出してるね。あれは、あったかい水だよ、やまちゃん」
「あーっ、温泉か……」
「やっぱり、やまちゃん、これも知ってるの?」
「うん、もちろん」
「なんか、すげーな」
「はしちゃんもすごいと思うよ。人間界のことをかなり知ってるじゃない? はしちゃんこそ、カラスになる前は人間だったんじゃない」
「俺がもしそうだったとしても、大してうまいものは食ってなかったんだろうな。だって、やまちゃんみたいに、食べ物の見た目がどうとか、匂いも重要だ、なんてこれっぽっちも考えたことなんてなかったからね」
「……」
はしちゃん、それはね、俺が人間だったころ、料理についてかなり勉強したからなんだよ。そう喉まで出かかった、やまちゃんでした。
*
やまちゃんたちは、阿蘇の大観峰に来ています。
「おっ! あの子どもを見て、はしちゃん」
「なんか手に持って食べてんな。あれはたしか……冷たくて甘いやつだよ。ここでじゃないけど、前に似たようなやつを食ったことがあるよ」
「あれって、冷たいの? ここってすごく風が強くてこんなに寒いのに、あいつ、あの冷たいやつをうまそうに食ってるけど」
「その後ろのおっさんも幸せそうな顔して、ペロペロしてるぜ。いい大人がよ!」
ここの名物のソフトクリームに少しだけ興味を示したやまちゃんたちでした。
「それにしても、ここって綺麗なところだよね、はしちゃん」
「俺、ここに来るのは初めてだよ。だってここって、かなり高さがあるんだよ。俺さ、高いところ苦手じゃない? 少しずつここまで来たからそこまで高さは感じないけどさ」
ここの標高は九百メートルを超えています。
「ここを越えれば、サキのいるところまでもうすぐだから、やまちゃん」
*
「あっ、サキさんだ!」
やまちゃんの目には、思いこがれたサキの、可愛らしい姿が飛び込んできました。
遠くで仲間たちとおしゃべりしています。
「はしさん、やまさん、お久しぶりです。どうしたんですか? こんなところまで……」
やまちゃんとはしちゃんをいち早く見つけたサキの弟のカサが、二羽の前に舞い降ります。
「カサ、久しぶりだな。元気だったか?」
「ええ、元気にしていました、はしさん」
「そうか、サキさんも元気そうだな」
はしちゃんは、遠くに見えるサキに目をやって、懐かしそうです。
「ええ、サキ姉さんは、ついこの間、幼馴染とつがいになって、今は幸せいっぱいですよ」
「えっ! サキさん……そんな……」
やまちゃんは、今にも泣き出しそうです。
サキのことだけを想って、何日もかけて、千キロメートル以上の長旅を続けて、はるばるここまでやってきたのです。
よこしまな考えを持つカラスは、結局、こういう目に遭うのです。
いい気味です。
やまちゃんに弄ばれたメスのカラスたちもこれで少しは救われます。
はしちゃんは、あらら……憐れみを含んだそんな目でやまちゃんを見ています。
そんなやまちゃんたちが目に入ったサキは、ひと羽ばたきして、颯爽と三羽のところまで駆けつけます。
久しぶりに見るサキのその姿は、本当に美しく、それが一層やまちゃんを悲しくさせました。
「やまさん、はしさん、どうしたんですか? こんな遠くまで……」
「サキさん、お久しぶりです。俺たち、ちょうど近くを通りかかったもんだから、サキさんたち、どうしてるかなって思って、寄ってみたんです。お元気そうでなによりです」
やまちゃんは、口から出まかせを並べます。どこへ行くのに、どうやったら、東京から熊本を通りかかることなんてあるのでしょうか? 不思議です。
「はしさんたちは、どこへ行かれる途中なんですか?」
カサは、はしちゃんたちにまた会えたことがすごく嬉しいのでしょう。屈託のない満面の笑みを浮かべています。
「……俺たちは、ここからまだ向こうのほうへ行くつもりなんだ」
そうはしちゃんが羽で方向を指した先は、鹿児島でした。
「街を見下ろす高台に、樹々が鬱蒼と茂ったところがあるだろう? そこへ行くんだよ」
はしちゃんは、苦しい言い訳だな、と内心苦笑しながらも、なんとかそれらしい旅の目的を口にします。
「そうなんです」
そういって、やまちゃんは、首をコクコクさせながらサキを見つめています。
「そうなんですね。はるばる何日もかけて、それはそれは……」
「サキさん、ちょっと聞きたいんだけど。サキさんが前に俺たちの住む街までやってきたときには、かなり早くたどり着いたっていってただろ」
はしちゃんは、不思議に思っていたことを尋ねました。
「ええ、そうです」
「俺たちがここまで来るのには、かなりかかったんだけど、いったいどうやってあんなに早く飛んでこられたの?」
「アハハハッ、ごめんなさい、はしさん。ほんとにあれだけしか、かからなかったんですけど、実は、あれとあれを使ったんですよ」
そういって、サキが羽指す先には、田舎道を走る荷台のついたトラックと、遠くの方にちょうど通りかかった貨物列車が見えます。
「……というと?」
「からだを休めるときに、あれを使ったんです。ごめんなさい、あのときはいいませんでしたけど」
「そうか? その手があったか……」
はしちゃんは、何度も長旅をしていますが、そんなことを思いついたことは一度もありませんでした。
四羽がそんな話をしていると、一羽のカササギが慌てた様子で舞い降りました。
「サキ、大丈夫か? どうかしたのか」
「あら、あなた。こちらは、やまさんと、はしさん。前に私がカサを探しにいった街でよくしてもらったの」
「ああ、サキを助けてくれたんだよな?」
「そう、本当によくしてもらったのよ。やまさん、はしさん、私の夫のササキです」
サキはやまちゃんたちにササキを紹介します。
「その節は、妻のサキがお世話になりました。ありがとうございました。あっ! あなたはカサがいっていた旅がらすのはしさんですよね?」
「そうです。ササキさん、初めまして」
「初めまして、ササキさん」
こいつがサキさんの旦那か……。やまちゃんは複雑な面持ちで、ササキに挨拶します。
「なんでも、はしさんたちは、私たちがこの前までいたあの場所に、はるばる遠いところから訪ねてこられたんだって」
「ああ、あの高台はかなり人気があるからな。あそこのカラスたちは親切で、縄張り意識もそこまで強くないし、よそ者の俺たちにもよくしてくれた。ほんとにいいところだったよな」
サキとササキは、人間でいうところの新婚旅行で、鹿児島の城山に行って帰ってきたばかりでした。
「ええ、あなたとふたりきりでいい思い出が作れたわ」
「それでは、俺たちはここらへんで失礼します。サキさん、ササキさん、それにカサくん。会えてよかった、お元気で!」
やまちゃんは、もうこれ以上、サキとササキの仲睦まじい姿を見るに堪えなくなりました。
そういい残すと、はしちゃんを待たずに飛び立ちます。
「あっ、やまちゃん待ってよ!」
「はしさんも行っちゃうんですか?」
「すまん、カサ。それでは皆さんお元気で!」
はしちゃんは慌ててやまちゃんを追いかけます。
「やまちゃん、待ってったら!」
はしちゃんは並んで飛びながら、やまちゃんの横顔に目をやります。
やまちゃんの目には涙が溢れんばかりに溜まっていました。
「やまちゃん、方角違うと思うけど……」
「はしちゃん。もう、帰ろうよ、俺たちの街へ……」
「……ああ、そうだな、やまちゃん」
やまちゃんの気持ちが痛いほどわかるはしちゃんは、余計なことはいいません。
はしちゃんたちは、サキから教わった通りに、休憩を取るときは、貨物トラックや貨物列車にこっそり便乗して、わずか四日ほどで東京に帰りつきました。
*
今日もやまちゃんは、いつものお気に入りの場所、信号機の上から、下を通りすぎる車や、歩道を行き交う人々をぼーっと虚ろな目で眺めています。
「やまちゃん、元気かな?」
その声とともに、やまちゃんの目の前にサンタクロースが現れました。
その巨体は空中にふわふわと浮かんでいます。
過去の作品、〈おれ、カラス クリスマスの奇跡 第一話へ続く〉
*
ここまでお読みいただきありがとうございました。