昭和40年代男が観た「シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖」※ネタバレあり

※ご注意※ これは極めて個人的な解釈と薄らぼんやりした記憶を基に書かれていますんで、ツッコミどころ満載だし賛成も反対もあるでしょうが、ま、オヤジの戯言と思って読んでください

25年…生まれた子供がそろそろ所帯を持ったり「会わせたい人がいる」なんて言ってどこの馬の骨かわからんのを連れてきたり、大学を出て3年も経つのに未だバイト生活でお前はこの先なにがしたいんだ、などと愚痴のネタになったりする歳月…

今作は、25年前に「エヴァンゲリオン」という子供を生んだ庵野秀明が、やっと子離れ出来た記念作ではないかと思う。と同時に、彼はあらゆるオタクをも一緒に卒業しちまったんじゃないか?という寂しさまで感じている。

そもそもエヴァンゲリオンTVシリーズが始まった時は、ガンダム(アムロ・レイ=15歳でガンダム乗り)を思い出させる、というよりパクリだとまで思われていたもんで、当時の擦れっ枯らしのオタクにとっては「ほほぅ…パクリのくせにキャラも設定もメカもいいじゃん。さすがGAINAXってことですな…」とか、もっと擦れっ枯らした黎明期のオタク連中は「DAIKON FILMの残党か…まぁいいんじゃない?」なんて、お前はどの立ち位置から見下ろしてるんだよ!ってくらいの評価だった。

ところが回を進めるうちに、段々とシンジやその他キャラの内面に深く潜り始めることで、いわゆる”中二病”と言われる人たちから絶大な支持を受け始め、時同じくして”インターネット”というツールが家庭に入り込みだした。結果、早くからネット環境を構築したオタク達によってエヴァンゲリオンが面白おかしく(←ここ重要)語られ始め、それを少し遅れて目にした中二病の皆様が、今度はクソ真面目に語り始めちゃったり、キャラクターと自分を同一視しちゃったり、五体満足医者知らずなのに眼帯したり包帯巻いたりする人たちが増え始め…なんて書くと、その世代の人たち(今やもう40歳くらいかぁ…)が云々になりそうですが、実はこういうのって昔からありましてね、月刊ムーのペンパル募集欄(ペンパルわからない人は調べてね)なんかは「私の前世はカクカクシカジカの戦士でドーチャラコーチャラ…”○○”という名に記憶ある方、連絡ください。伝えたい真実があります」なんて投稿が溢れ出して、結局編集部が正式に「前世の仲間募集は載せない」という決断をする自体にまでなった事があったんですよ。確か「聖闘士星矢」とか、「ぼくの地球を守って」とかが流行ってた頃だったと思うけど。まぁそれくらい、昔っから世の少年少女ってのは夢見がちで妄想癖で突っ走りがちなのです。

庵野秀明が生み出した「エヴァンゲリオン」は、即ち庵野秀明自身が内包していた”思春期の庵野秀明”や、それに類する言動を曝け出す事で作品を作り上げていった、まさに”身を削る思い”で作り上げられられた作品ではないかと。

その一つの結末が、旧劇2作目の有名なラスト「気持ち悪い」になるわけで、つまりこの言葉は、中二病(この言葉の解釈には様々な意見がありますが、今回は俺解釈)を拗らせて作ってきたエヴァンゲリオンを、俯瞰で観た時の、庵野秀明自らが発した言葉だと思えて仕方ない…ほら、誰でも経験あるでしょ?いわゆる思春期のポエムとか漫画とか、その当時の口癖とか。あれですよ、あれ。気恥ずかしいというか気持ち悪いというか、あれをちゃんと俯瞰で冷静に見られる人っているのかね?それはそれで気持ち悪いけどw

まぁそんな己の分身を”気持ち悪い”で片付けちまっちゃ、さすがの庵野秀明も夢見が悪いってもんで、そこから今度はちょいと仕切り直して”新劇場版4部作”になっていくんだけど…ここでもまた、やはり自分自身を切り売りするような作り方をしちまったもんだから、Qが出来上がる頃には本人も言ってる通り”うつ”に陥る。そりゃそうでしょ、いわば過去の自分を畳んじゃおうって作業なわけだから、自己否定とか自己肯定を目まぐるしく繰り返しつつ、さらに自己を客観視したり、その己の分身を今度はビジネスとして見てみたり…なんかね、川端康成のように、周りにスタッフはいても”孤独”から逃れられなかったんじゃないかと思うのよ。だって唯一自分という主観すら薄れるような恐ろしい作業だもの。

そして”うつ”との戦いの中で、段々と”孤独”から解放されはじめ…ここらへんは奥様・安野モヨコ氏と(株)カラーによる、カラー10周年記念動画「大きなカブ」が非常にわかりやすい…ついに最終章「:‖」が出来上がる。折しも庵野秀明が還暦になった年=2020年に完成し、諸々の事情で2021年公開。

庵野秀明は、この作品で生まれ変わろうとし、恐らくそれは過去の自分からの脱却であり、孤独という妄想を捨てることが出来たからこそなし得た、まさに還暦で再び赤いちゃんちゃんこを着て幼子に戻るという行事をやってのけた。即ち劇中でシンジたちが”エヴァの呪縛”から逃れられたように、庵野秀明自身も”エヴァ=自分による呪縛”から逃れられ、マリのようなパートナー(安野モヨコ氏)とともに、あのラストシーン…宇部新川駅から走り出すカップルの実写…という、まさかの大団円を迎えた、というのが総論的解釈。なげぇなw

で、そこに至るまでにも庵野秀明の心象描写は其処此処に見え隠れしてて…まぁここらへんはいろんな人が考察してるから端折るけど、全く書かないのも、それはそれでアレなんで昭和のオタクオヤジっぽいネタをいくつか…例えば終盤、シンジの居場所がスタジオのセットというシーンがある。これは川島雄三へのオマージュ。川島の代表作といえば「幕末太陽傳」。実はこの映画、名の通り幕末が舞台ではあるが、最初企画されたラストは、主人公がスタジオセットを飛び出し、現代の街へ走り去る、というシーンだった。勿論当時(1950年代なかば)の映画でそんな事をやれるワケもなく、結果、川島はすったもんだの上に、不本意ながらありがちなラストを撮る。川島は「サヨナラだけが人生だ」という言葉を残して死んだが、アニメとはいえそのような恣意的とも捉えかねないシーンを終盤に見せるのは「これは作り物なんだよ、ウソなのウソ!」と、エヴァに魅せられてなんとなく人生が揺れてしまった人たちの目を覚ます、そして自分自身も目を覚ますためのシーン。これは最後の、宇部新川駅から走る実写にも繋がっているんじゃないあろうか。

同じように、シンジエヴァとゲンドウエヴァが戦うシーンでも、街なかでで戦っていると足元の建物がまるで箱のように動くシーン、これも「ね、ホンモノっぽくてもみんなハリボテなの、嘘っぱちなのよ!」というシーン。

で、こういったギミックを使わなきゃならなかった理由の一つに、エヴァに魅せられた人たちが、庵野秀明が思っていたよりもはるかに幼く、また、庵野秀明自身もその幼子たちに飲み込まれかけた状態だったんじゃないかと。

ここで一つ昭和オタクオヤジの説教臭い話をしますが、わりとうちらの世代ってのは”訓練された”世代でして…というのも、長らくプロレス人気が続いてて、そのエンターテインメント性を子供も大人も理解してた、という背景があるのです。プロレス=真剣勝負だなんてミリも思ってないけど、あえてそこは濁すことで楽しむのがプロレス。だから映画の中でどんなに感情移入しようが、それはそれ。でもそれを表立って言うのはヤボ、って感覚。ところがうちらの同世代の中から”三沢さんはガチ”なんて言い出す人たちがいましてねぇ…こういう連中を生暖かく見守りながら、敢えてそこは「いやいや、武藤には勝てないっしょ!」なんてつまらん論戦をかわしたもんです。

映画や漫画、アニメや小説、もちろんドキュメンタリーもあるけど、大部分はフィクションであり空想であり作られた虚像である、というのをちゃんと理解してるからエンターテインメントを楽しめる、というお約束がわからない人たちが増えているんですよ、実は今でも。前述した包帯や眼帯もそうだし、ムーのペンパル募集もそうだし、なにかこう、境目のなくなった人たちが増えてしまい、その原因の一つにエヴァが数えられてしまってるのです。おそらく40になろうというのに「最低だ…俺って…」なんてティッシュ片手に言ってるヤツもいるんじゃないかとw

そういう風潮を作り上げってしまった責任すら、庵野秀明は抱えてしまったのではないか、と。だからああいったギミックまで使って”さらば、すべてのエヴァンゲリン(オタク)”と言いたかったのではないのかな?と。

もちろんそういうクソ面倒くさいオタクが生まれた背景にエヴァが全く関わっていないとは言えないけど、エヴァがなくたってきっと別な作品がその役割を担っていたと思うから、庵野秀明が背負い込む必要なんてないんだけど…背負っちゃったんだねぇ…。

だからね、この映画のラストシーン…大人になったシンジ(この声が神木隆之介ってのは、もはやギャグというか狙ってるよなw)とマリが、宇部興産に向かって走っていくシーンは、自らの生まれ故郷=宇部の街に、自らが育てた、というよりむしろ分身とも言えるキャラクターが伴侶(マリ=安野モヨコ)を携えて走ることで、エヴァンゲリオンという「25年間の虚構」をぶっ壊したのよ。”はい、もう終わり~!お疲れ様でした~!”ってね。

さて、長々と駄文を書いてきたけど、そもそも銭も貰わんとこんな長ったるくなんて久々なもんで上手く構成も校正も出来ない点はゴメンナサイ。

まぁアレだ、誰か酒でも飲みながらエヴァ語ろうぜw

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