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理知を継ぐ者(44) 歴史とは④

 こんばんは、カズノです。

【もっとも身近な「歴史」】

 前回では歴史のもろさを説明しました。
 さてところで、私たちが日常普段に接しているものに「言葉」があります。「言葉」ほど歴史らしい歴史を背負っているものはありません。何千年という時間の中で、あれこれ試された結果として、朝の挨拶は「おはよう」がいいねと辿り着いたものです。
 けれど、なぜそれが「おはよう」でなければいけないのかと聞かれたら、誰にも答えられません。「そうなってるから、そうなのだ」以外に返事はありません。
 歴史とは必ず経験論的なものですから、「なぜそうなのかの根拠はない」し、歴史のもろさとはそういうものです。「あたしはこれがいいから」「思想的にいえば」「理論上、科学的にいえば」に簡単に負けてしまう。

【「歴史」がなくなった時代】

 だからべつに、「お母さん」という単語が持っている歴史を捨ててでも思想を通したいと思うなら、それでいいと思います。いえ、「和装に洋装のアンマッチ」が出てきた頃から、もうそういう個人的な/思想的な主義主張が通ることになっているので、今さらいいも悪いもありません。

「いいじゃんいいじゃん」「思想的には」「科学的には」が流行ってこのかた、日本からはほぼ歴史が無くなっています。なので今の日本人は「今」しか生きていません。

 歴史つまり過去を否定するのが日常になったのだから、これは当然です。根無し草というやつですね。
 人は現在の正当性を過去/記憶/経験論的蓄積に求める生きものですが、頼るべき過去を持たなくなった日本人は、現在という時間の中でふわふわ漂っているだけになりました。

 ちなみに念のため、そういう風に「歴史」「過去」の重みが無くなったからミギは歴史修正を大っぴらに行えるようになったのが現在、ということですけどね。彼らが言っている「日本の伝統」はべつに伝統でも歴史でもありません。それなりの客観的歴史観からしても著しく異なります。だからそれは「歴史の修正だ!」と批判されるわけですが、こういうものが出てくる背景とは「歴史」「過去」が重みを失ったというそこにあるんです。むろんフェミニズムの歴史修正もこの「歴史」「過去」の軽さを頼りにして成り立っています。

 ともあれそれが近過去の歴史なのですが、そうなんです、これも「歴史」なんです。
 ああ、面倒くさい話になってきた。

 *

「いいじゃんいいじゃん」「思想的には」「科学的には」で自分や現在を測ろうとする、それが今の日本人が立っている「過去からの時間」です。つまり頼るべき背景です。人は現在の正しさの根拠を過去に求めますが、でもこの背景は、頼るべき過去を否定していく背景なんですよね。
 おまけにそれでも歴史は続いていきますから、この短期間のうちに生まれてしまった価値観の蓄積もまた、あるわけです。(でもそれすら否定しないといけないのが近過去からの日常の在り方でもあるわけです)。
 どうするんでしょう、これから日本人は?



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