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理知を継ぐ者(42) 歴史とは②

 こんばんは、カズノです。

【歴史らしい歴史はありえるか】

 歴史には3種類あると話しました。
 ①過去から連綿と続いている歴史と、②今を基準に振り返られた歴史がまずあります。②が実は圧倒的に多い歴史(認識)ですが、そんな②はほんとの歴史じゃないんじゃないか? と考える真面目な人は失われた①を求めます。でもそこはそれ、本人の主観/主体性が混ざらない知見や結論などありえませんから、結局は③ふたつを合わせたような歴史になります。

 そういうのがだいたい「歴史」の3種類ですけれど、さて、そう話せば分かるように、じゃあそもそも①「過去から連綿と続いている歴史らしい歴史」なんて人は知ることが出来るのか? という疑問がここで生じます。
 だってどれだけ正確に歴史に対そうとしたって、やっぱり本人の主観なり、自己肯定欲求が頭をもたげるなら、人にはぜったい「歴史らしい歴史」を認識できないことになってしまいます。
 でもほんとうにそうでしょうか?
 歴史らしい歴史を、私たちはほんとうに知ることが出来ないのか? これが今日の論点ですね。

【歴史はここにある】

 結論を先に言ってしまうと、歴史らしい歴史を私たちは知ることはできません。けれど、感じることはできます。「感知する」という便利な言葉を使えば、「知ること」もできるでしょう。
 歴史書の年表を概観するようには、人は歴史を知ることはできません。けれど「感じて、ああこういうものが歴史なんだな」と思う=知ることはできます。
 ではどうすれば人は歴史を感知できるのかですが、これは簡単です。目をあければそこにあるのが歴史です。

 例えば、食器です。箸とか茶碗とかお椀とか、お皿とかフォークとかスプーンとか、こういうものはいきなり歴史を表現しています。
 つまり、なぜ箸が今の箸の形になったのか、なぜこのような素材や色合いや模様が残っているのかといったら、「そうなるべく歴史を経てきて、今のこの形・素材・色合い・模様になったから」としか言いようがないからです。
 だから箸の持ち方もそうです。なんでぐーで箸を持っちゃいけないのか、なんでそういう持ち方をすると笑われるのか──今はもう笑われないとしても、それでも「これがちゃんとした箸の持ち方」と呼ばれるものがあるのかというと、「あれこれ試して結局これがいちばん使い勝手がいい」とされてきた、過去からの蓄積があるからです。
 要するに、日常的なモノにはなんでも歴史があるし、「過去から連綿と続いてきた歴史」とは「箸」「箸の持ち方」を見れば認識できるということです。

「なんで自分がそうしているのか分からない」「なんでそれを使ってるのか分からない」「でも生まれたときからそこにあって、おかあさんやおとうさんのようにそれを使っている」というものは、だいたい「歴史らしい歴史」の上に乗っています。
 だからそれを見れば、「ああ、歴史とはこういうものなのか」「箸はきっとこういう現在に行き着くような歴史を経てきたのだろう」「つまりこんな感じの歴史だったんだろうな」と感知することができるんですよね。



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