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理知を継ぐ者(52) 被害者というもの⑤

 こんばんは、カズノです。

【日本語のカタチ】

 感情論が嫌われ、「科学的に話そう」と呼びかけられる現在とは、いわゆるコンプライアンス=規律の遵守を大切にした合理性に重きを置いているようです。法に限らず、倫理道徳もその「守るべき規律」に入るようです。
 でもその現在は、いうほど科学的でも合理的でもないし、尊重されるべき人間規範も合目的であるとはとうてい言えません。そもそも、どんな紛争も100対ゼロで白黒をつけないとならない、つけられる、と思っていることじたいが幼稚です。かつての日本人は、どんな紛争も100対ゼロにはたいてい出来ないことを知っている(かのような)言動をしてきました。
 そしてその日本人は、「被害者であること」を自分から表明するのを嫌っていました。
 べつに日本の伝統的な人生観・人間関係観はそういうものなのだから、現在のみんなも受け継ぎましょうとか、そういう話ではありません。

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 日本語の構造上──「日本語のカタチ」といったほうが分かりやすいですかね、日本語のカタチとして、いまも例の「私は被害者です」とは、「私は可哀相な人です! だから同情してください!」の文脈にあります。問題はこちらです。
 欧米語のように単刀直入に事実だけを告げ、「これこれこのように私の体験イコール被害。つまりこのような非がイコール彼」と話して終わる言葉ならいいんですが、日本語はそうではありません。

 かの高校生たちの言葉のように、『一人ひとりが輝ける社会をめざすような商品名に変えてほしいです!!』になってしまう。「ほしいです!!」と、どうしても「気持ち」が前に出てしまう、これが日本語です。
 あるいは受講生Dのように、『私たちはもう我慢しない』などと、付けなくていい「気持ち」が付くこともよくある。これが日本語のカタチだということです。
 そうして、商品名や講師の言動に問題があるかどうかという議論じゃなく、「私の気持ちを聞いてください!」というテーマでのやりとりになってしまう。あるいは前者をテーマにしつつも、抗議者の「気持ち」を斟酌しながらの対話になってしまう。こちらはこちらで「気持ち」で返すべきだで、「気持ちと気持ちのやりとり」のほうがいつか大事になってしまう。
「被害者は私ですよ? 何を言ってるんですか?」も、たいていは「こんなに傷ついてる私のことを、どうしてあなたは分かってくれないのでしょう?」になってしまっているものです。

 ふつうに話すとどうしても「気持ち」が出てしまうし、相手も「気持ち」で返してくるのが分かっている。それが日本語で、だから日本人は「私は被害者だ」を嫌ってきたんですよね。「私って可哀相でしょう? じゃあ同情してくださいよ!」を嫌っていた。
 逆説的ですが、「情に訴えてしまうのは最初から分かっているから、過剰に情に訴える真似は避けたい」という、それが日本人の配慮だしプライドだったということです。(そういう土壌があるからこそ、「同情するなら金をくれ!」みたいなセリフが「衝撃」にもなるわけです)。
 これが日本語のカタチだし、つまりは日本人の心性なんです。ちなみにもちろん、心をつくってるのは言葉です。

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 まあそれだけ他人との親密な感情のやりとりを大事にしているとも言えるので、それはそれで大事なことだと思います。(「自分にも落ち度があったのかも知れません」が出てくる背景もこれです)。
 おれの友達にも、こういう「私は被害者です!+ほぼFワードな罵詈雑言」を使い、周囲にたしなめられ、「なんで私に注文をつけるんでしょう!? 被害者は私ですよ!?」と返答をした人間がいました。それでも身近な人からの視線を考えたんでしょう、彼女はすぐにその言葉を撤回しましたけどね。
 だからなんだという話ではないですし、日本語を使う人間としてやっと「まとも」に近づいたくらいなので、そいつの自省を褒める気はありませんが、これはこれでいいことだと思います。こういうものを生むなら日本語のカタチもそう悪いものじゃないんじゃないかと。
 蛇足ながら、もちろん、日本語だって欧米語のように使おうと思えば使えます。ただ、そう使うことが果たして日本人の幸せなのかは分かりません。日常的に使っている言葉(に限らず、食器でもその扱い方でも)を禁じられたら、たぶん人がパニックに陥るのに一日もかからないでしょう。

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 結論らしい結論はなしとして、こんどの話題はこれくらいにしましょうか。



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