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禅語の前後:今朝有酒今朝醉、明日愁來明日愁(こんちょう さけ あらば こんちょう よい、みょうにち うれい きたれば みょうにち うれえん)
大学ボート部員だった学生のころ、試合の手伝いの都合で、県の協会の偉い爺様たちと温泉旅館に一緒に泊まったことがあった。
爺様たちは朝食の席で当然のように瓶ビールを開けはじめて、いやまだ今日やることありますからと固辞した僕たちを嗤い、そんなことだからお前のとこの試合成績はイマイチなんだ云々と嫌味なことを言いながら、うまそうに杯を干していた。
自遣
得即高歌失即休
得れば 即ち 高歌して 失えば 即ち 休む
多愁多恨亦悠悠
多愁 多恨 また 悠悠
今朝有酒今朝醉
今朝 酒あらば 今朝 酔い
明日愁來明日愁
明日 愁い 来れば 明日 愁えん
日本でいうと平安時代、空海の百年ほど後・紫式部の百年ほど前に、中国には科挙に落ちまくったことで有名になった詩人がいた。
羅隠というその詩人が残した、自遣という詩は、中国のほうでは割とポピュラーなものとして、今でも語り継がれているそうだ。
こないだ行った神楽坂の台湾料理の飲み屋さんの壁にも、誰かがこの詩を落書きしていた。
うまくいったら高らかに歌おう、うまくいかないならやめちゃおう。
さみしいこと、うまくいかないこと、沢山あっても悠々としてよう。
今日ある酒は、今日のうちに飲んじゃおう。
明日の心配事は、明日に回してしまおう。
だいたい、そんなような意味合いの詩である。
Que será será、である。
こんなあっけらかんとした詩を禅の言葉と言っていいのだろうか、と、ちょっと思わなくもないのだけど、無門慧開の師匠である月林史観の語録にもこの「今朝有酒…」は載っているらしいので、まぁ、いいんだろうな。
ここでいう「今朝」は、日本語的な「きょうの朝」と言う意味合いはなく、中国語的には「きょうという日」というニュアンスらしい。
だから、詩の原意としては、朝っぱらから酒をかっくらおう、というような意味ではない。
……ではない、が、この詩の字面を見たときに、あの温泉の朝のゆかいな爺様たちのことを思い出した。
あのときの爺様たちも、もう随分まえに鬼籍に入ったと聞く。
今の僕ならどうだろう? どちらかというと、もう、あの頃の爺様たちのほうに近い意見を持つかもしれない。