禅語の前後:円空(えんくう)
円、えん、まどか。丸、完全さ、和やかさ、を意味する。
空、くう、そら、から。何も無いこと、を意味する。
円空、完全に何も無い。これが、禅に繋がる大乗仏教の、コアなコンセプトであるという。
何もない、というのをことさら重要視するというのは、奇妙な話ではある。いったいなんなんだろう、と、ちょっと歴史を追ってみたら、この二〇〇〇年の間にいろいろな解釈が生まれたもののようだ。
紀元前三〇〇年、インド、ブッダの「空」
(ブッダが答えた、)
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。」
「ブッダのことば スッタニパータ」1119(中村元 訳、岩波文庫)
仏教の創始者ブッダの言葉だとされる、紀元前三〇〇年以前に書かれたという古い経典では、インドの古い言葉で”ゼロ”・”欠けていること”を意味する「シューニヤ」が使われていて、現代日本語としては「空」と翻訳されている。
初期仏教の経典がいう「死を乗り超える」というのは、もちろん物理的に不死身になるということではなくて、繰り返される死と再生のモチーフを超えて完全に安定したゼロの心理状態に至ること、を指すのだろう。いわゆる癒し系などという生易しいものではなく、そうとう苛烈な修行の果てに行きつける場所だ。
紀元前二〇〇年、バビロニア、ソロモンの「空」
1:1 ダビデの子、エルサレムの王、コヘレトの言葉。
1:2 コヘレトは言う。
空の空
空の空、一切は空である。
1:14 私は、太陽の下で行われるあらゆる業をみたが、やはり、すべては空であり、風を追うようなことであった。
「旧約聖書 コヘレトの言葉」(聖書協会共同訳、日本聖書協会)
「ダビデの子、エルサレムの王」と言われたらソロモン王その人を指すのだけれど、旧約聖書のこのパートには「コヘレト」という別名で登場している。すべてを知り、すべてを手に入れたという伝説の賢王の名において語られる「空」の繰り返しには、さすがの迫力がある。
上述の日本語訳では「空」と翻訳されている、アラビアの古い言葉で「ヘベル」という単語は、"からっぽ"・"むなしい"・"はかない"という意味合いの言葉で、この書物の中で何度も何度も、繰り返し使われる。聖書の中でも異端のこの一節は、いろいろな解釈がされているけれど、たんに「世界はむなしく、はかない」というだけではなく、「だからこそ日々を強く生きろ」と諭すような内容でないかと、僕は思う。
ソロモン王ご本人は紀元前一〇〇〇年ごろの生まれだけど、聖書のこのパートは紀元前二〇〇年より後に書かれたものらしい。かつて栄華を誇ったアブラハムの民が、安住の地を追われたのちに自らの歴史をふり返って書物とする、その活動の中で、ソロモン王の名を借りた誰かさんがいたんだろう。
そう考えると、この書の言葉それ自体は、時代的にはブッダよりも後になる。初期キリスト教が仏教の影響を受けているのでないか、という真面目な研究も、Wikipediaに何ページも書き込める程度にはあるらしい。
西暦二〇〇年、インド、般若経の「空」
(観音は)存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
「般若心経」(中村元・紀野一義 訳、岩波文庫)
で、インドの仏教のはなしに戻る。
大乗仏教の経典である般若経のうち最古のものは、西暦二〇〇年ごろには成文化していたらしい。
「その本性からいうと、実体のないもの」は、元の言葉では「スヴァバーヴァ・シューニヤ」。スヴァバーヴァは"本性"・"本来"・"実態"、シューニヤは前述の通り”ゼロ”・”欠けていること”、「空」を意味する。
インドではその後、「その本性からいうと」という言葉の意味合いが強調されていったらしい。
「世界のすべては本性からいうと空なのだけれど、本性じゃないところでは空じゃない、だから世界は俗世間のひとたちには空じゃないように見えるけれど、ブッダの教団の一員として修行をして、いつか本性としての空を見抜けるようになりなさい」、…みたいに。インド人は理屈っぽいから、何もないというのがどういうことなのか、説明されないと納得できなくなっていったんだろうかな。
インドからチベットに伝わっていった仏教も、この流れでの解釈が多かったそうだ。
西暦七〇〇年、中国、玄奘三蔵の「空」
照見五蘊皆空。
度一切苦厄。
「般若波羅蜜多心経」(唐三蔵法師玄奘 訳)
西遊記で有名な玄奘三蔵は、前述の「スヴァバーヴァ・シューニヤ」に「皆空」という漢字を充てた。本性とか実態とかいう話を抜きにして、たんに「世界のすべては空である」と言って、中国人はそれをそのまま受け入れてしまった。
この異国の思想を中国人たちは、それまで自分たちが接したこともないような斬新な思想あるいは文化として受け入れるというよりは、老荘思想の「無」に近いものとして受け入れたのである。老荘思想においては、この世界を成立させている根源的な存在が許されている。それは形もなく、色もなく、触れることもない等の理由によって、しばしば「無」と表現された。「無」とはいうが、それはインド中観派が考えたような「空」あるいは「無」ではなく、むしろ現象世界のさまざまな変化を生ぜしめる根底としての有力なものであった。
「空の思想史」第12章 (中村元 著)
のちの世界で禅僧が言う「本来無一物」というような、世界の根幹に「空」がある、という捉え方は、もともとはインド仏教ではなく中国老荘思想の「無」が由来であるらしい。これは、紀元前後のインド人が聞いたら、びっくりするような異文化的解釈なのかもしれない。
西暦八〇〇年、日本、空海の「空」
中国で老荘思想と混ざって、「世界のすべて」=「空」、というかたちになった仏教は、日本でさらに八百万すべてのものに神が居る的なアミニズムと混ざって、またその色合いを変える。
六大無碍にして常に瑜伽なり。
四種曼荼各々離れず。
三密加持すれば速疾に顕わる。
「即身成仏義」(空海 著)
タイプしてて気づいたけど、六・四・三、と並んでいる。さすがに空海の文章は美しい。
六大(=世界のすべて)が、とどこおりなく和んでいる。
四種のマンダラ図は、森羅万象すべてを含んでいる。
三密(=からだ・ことば・こころ)を整えれば、今すぐにでも仏になれる。
人も森羅万象のひとつであって、ひとのなかにも「空」はあり、「空」を得たならそのひとはもうすぐにでも仏そのものになれる(即身成仏)、と、空海は言う。
インド人であれば、例えば、桜の花びらを一枚一枚取っていきながら、どこに美があるかと考えることだろう。しかし、日本人はそのようなことはしない。桜の花一つを見て、それが世界だと「感じて」しまう。そして、散る花そのものを「空である」すなわち「真実である」といって憚らない。
「空の思想史」第15章(中村元 著)
まとめると
もともとの紀元前の「空」は、この世は空しいものだからこそよりよく生きよう、というような意味合いだったのだろう。ひょっとしたらそれは、ブッダから始まって、キリストにまで伝わっていたのかもしれない。
中国にはもともと老荘思想の「無」の思想があって、仏教と一緒にインドの「空」を輸入したときに、「空」≒「無」、世界のすべての背後にある、見えないし掴めないし何とも言えないけど素敵なもの、という解釈をした。
日本にはもともと万物に神がおわしますという思想があって、仏教が中国経由で日本に伝わったとき、インド仏教の「空」≒中国老荘の「無」≒日本のアミニズム、八百万の神様と同じ種類の何か有難いもの、という解釈をした。
もちろん、中国も日本も、インド発祥の要素をそれぞれ引き継いでもいるのだろうけれど、たぶんブッダが現代日本に来たら「あぁ、ぼくの言ってたあれってば、今こんな風になっちゃってるのね、へぇー新しいわー」って思うことだろう。「まぁ別にいいんだけど」って、言ってくれるだろうとは思う。