禅語の前後:秋雲秋水兩依依(しゅううん しゅうすい ふたつながら いいたり)

 いまから千年ほど前の中国にいた禅僧法演ほうえんは、今も日本で続く臨済宗りんざいしゅうの中興の祖といわれていて、高名な僧の師匠筋にもあたり、自身でもいろいろと書き残している。
 文学的な才能もあった人のようで、こんなふうな秋の別れの歌も残っている:

送黃景純 法演  黃景純こうけいじゅんを送る
 
秋雲秋水兩依依  秋雲 秋水 ふたつながら依々いいたり 
寒雁聲聲度翠微  寒雁さいがん 声々せいせい 翠微すいびわた
多向洞庭青草岸  多くは向こう 洞庭青草どうていせいそうの岸
楚天空闊不知歸  楚天そてん空闊くうかつ 帰ることを知らず

秋の雲が秋の水に映え、互いに別れがたく想い合っている。かりの声が山を渡り、ふたつの湖の向こうへと渡っていく。この広い空の下、帰ることを忘れてしまわないだろうか。…そんなような意味の歌。
美しい情景詩でもあり、今生の別れの予感もあり、渡り鳥になぞらえて帰還の期待も込められている。

黃景純が誰なのか、法演とはどういう関係だったのか、その後ふたりが再会できたのかどうかは、良く分からない。黄は僧だったという説もあるが、確定ではないらしい。黄について歌ったらしい詩もあるけれど、私の漢文力では今ひとつ意味が分からない。とにかく、法演にとって黄は、別れを惜しんで歌うほどの関係だったのは違いない。

翠微すいびは青い山を、空闊くうかつは広々とした様子を指す。洞庭・青草は、となり合うふたつの湖の名前で、洞庭湖のほうは当時中華最大の淡水湖だった。は、この地方に栄えていた古代の国名。

秋雲秋水兩依依しゅううんしゅうすいふたつながらいいたり」という言葉自体は切り取られて、互いを映し合い補い合う二者という意味合いをもった禅語になっているそうだ。

秋の空と秋の湖の、すみ渡った広い組み合わせは、なぜだか寂しさを感じさせる。きっと冬が近づくからなんだろう。こんな日は、暖かいものを食べて、養生するに限る。信州蕎麦など食べよう。