黒澤映画「乱」〜私はこれで悲劇を知った

悲劇とは何か。日常の会話で「それは悲劇だ」などと嘆いたり、悲劇を謳う小説や映画も散々観て、分かった気になっていた。その認識に疑いを持つことすらなかった。しかしこの映画を観て気がついた。


自分は悲劇という劇を知らなかった。

そして今知った。

一本の映画を観たことによる。


黒澤明の「乱」。監督75歳での作品である。シナリオが完成したのは76年のこと。

しかし、莫大な制作予算と観客を呼べそうにないストーリーに出資者がいない。


そこで黒澤が考えた戦略があった。「影武者」との抱き合わせで作ること。影武者はエンタテインメント性が高く、出資もし易い。作られた衣装や小道具などは次作の乱に流用できる。


こうして先行して作られた影武者はカンヌを始め、世界の賞を総なめにし、日本の世俗的にも「この政治家は〜の影武者だ」などと日常用語として定着した。


黒澤の目論みは的中。見事に乱の製作にこぎつけ、日仏合作映画として1985年に世界公開された。製作費は26億円、興行収入は16億円という成績だったが、評価は高く黒澤映画の最高傑作の一つに数えられた。


私は映像制作を生業としてきた経歴はあるもののプロの批評家ではない。となれば普遍的なものを目指す批評を書いても無意味だろう。語るべきは「私」という一個人にどう見えたかだ。


私は現在62歳。乱の公開時は25歳だった。影武者が面白く観られた私にとって乱はひたすら退屈な映画だった。ストーリーに新しさもなく、スペクタクルといってもハリウッドの物量映画群に慣れ切った目には惹かれるものもない。芝居も大上段に構えた台詞回しにリアリティーを感じられなかった。


一体、どう観れば面白いのか。公開後にビデオでも観たが、当時はテレビも小さく、VHSの画質は悪かった。その上、70ミリで撮られたこの映画はビデオになると画面の上下が大きく切られ、情けないほどに小さな画面になってしまう。これではディテールを味わえるはずもなく、乱はつまらない映画としてずっと私の中に残ることになった。


時は移り、映画の視聴形態は変わった。動画配信が主流となり、観たいと思った映画はその場ですぐに観られる。画質も音質も劇場のクオリティーが家庭で手に入る。映画ファンである私にとって素晴らしい時代が到来している。


黒澤明。映画史に輝く巨人である。黒澤のこの立ち位置は映画ファンによるものではない。Kurosawaとは映画のプロフェッショナル達に刷り込まれたブランドなのだ。その作品は世界中の映画学校で教材として使われる。彼が編み出したプロット、撮影技術、画面構成法はカットごとに咀嚼され教科書として映画青年たちの意識に刻まれている。

黒澤映画は実に深いところで世界の映画に影響しており、もしもそれがなかったとしたら映画文化は随分と違うものになっていただろう。


その黒澤が「乱」を人類への遺言だと言い切っている。この映画に込めた遺言とは何か。さらには、25歳の私がつまらないと感じた一方、世界の評価は高い。その違いをどう理解すれば良いのか。


そうした思いが重なり、35年ぶりに観てみたのだ。


沁みた。

カットごとに映画の息遣いが私の心に沁みてきた。

この映画は生きている。生きて私に迫ってくる。


25歳で分からなかった黒澤のメッセージが62歳の私にずっしりと届いてくる。

驚きと同時に嬉しいと思う。35年をかけて自分が成長したという証だからだ。


この映画は黒澤明の分身だと言う。いや本人そのものと言って良いかもしれない。プロット、芝居、撮影、照明、衣装、小道具、音楽、などなど。映画を構成する要素の全てに黒澤個人の神経が行き届いている。そのどれかに少しでも破綻があれば黒澤は痛みを感じていたのではないか。


メイキング映像を見た。役者やスタッフへの指示が凄まじい。夥しい数のエキストラやスタッフ、関係者がシーンと静まり返る現場に監督の怒鳴り声が響き渡る。その大声が黒澤の痛みの声に聞こえてならない。映画の細部にまで行き届いた黒澤の神経は痛みのセンサーだ。誰にも分からない、本人だけが知る痛み。あの怒声は傷を負ったライオンの咆哮に聞こえてならないのだ。


黒澤映画の現場では監督とスタッフとの軋轢エピソードに事欠かないが乱も然りだ。

脚本の小国英雄はシナリオ完成前に降りている。作曲の武満徹は、曲に注文をつけてくる黒澤の態度に怒り、自分の名前をクレジットから外せと言い放った。


強圧的な手法は多くの人々を傷つけてしまいかねない。黒澤組の助監督の一人、田中徳三はこう証言している。

「自分の作品のためには全ての人を犠牲にしても構わないという凄まじいエゴイズム」


黒澤本人は自分をどう見ていたのか。自分の中にある凄まじいエゴイズム。それが引き起こす軋轢と名声は自分のためか映画のためか。何か巨大なものに映画を作らされているのではないか。怒涛のように渦巻く疑念や葛藤がこの映画に投影されている。


仲代達也演じる主人公、一文字秀虎は黒澤本人を描いたものだ。人類への遺言とは黒澤という個人に映るこの世界の誠を世界に伝えたかったということだろう。

それは75歳の熟練監督の手によって見事に達成されているように思う。


圧倒的な指導力で国を支配する秀虎。その彼も歳をとる。心に描いたのは跡を継ぐ3人の息子達を軸にした一族と民の繁栄だ。その理想は高く正しいものであり、疑う余地もなかった。


しかし、その秀虎にも御せないものがあった。人間の欲望と怨念である。人々を動かしていたのは秀虎の理想ではなく各々に渦巻く負のエネルギーだった。


欲望が隠れている中で保たれていた仮初めの平穏。均衡が崩れた途端に欲望と怨念が噴き出す。秀虎は信じていたものが仮初めに過ぎなかったことを、その肉が削がれるような痛みとともに思い知らされていく。


欲望と怨念のままにうごめく一族や重臣達。その様を見ていると、彼らを動かす得体の知れない大きな力を感じる。その何かに操られ、愛し合うべきが殺し合う存在に変貌していく様が徹底した様式美の中に描かれていく。


75歳の巨匠が作り上げた世界観を25歳の私は全くと良いほど理解しなかったが、

62歳になった私の心に痛いほど伝わってくるのだ。


黒澤が背負った葛藤を私もまた経験し、受容してきたということだ。

人類への遺言。

私は人類の一人としてその遺言を受け取ろうと思う。

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