初めての選挙に際して考えたこと

ハロウィーンの日の衆院選。18歳になって選挙権を手に入れてから初めて迎えた国政選挙だった。もともと政治や社会には多少の関心があったので、投票に行くまで候補者や政党について色々と調べ、考えていた。そうしているといくらか思うところがあったので、ここに書き溜めておく。


これまで、私は政治について「政治家と有権者たちが各々の理想を追い求めて相争うもの」みたいな印象を持っていた。しかし、実態はもう少し違っているっぽい。言うなれば、そんな性格もあるにはあるけどほんの一側面でしかない、という感じだろうか。確かに政治家たちはマニフェストに各々の理想を存分に反映させているし、有権者も各々の思想信条に基づいて票を投じている。でも、政治、こと現代日本の国政においては、それらを引っくるめて包含するもっと普遍的なテーマが無視できない働きをしている。

妥協。

全ては妥協の上に築かれる。
大多数の政治家は理想を最大公約数的に擦り合わせて党を組み、党是や党の重鎮、有力者等との関係に縛られながら自身の理想になるべく近い形で事を運ぶ。
一方の有権者も、自らの信条にぴったり適う政治家を見つけられることは殆どない。どこかで相容れない候補者たちの中から、政策に関して最も共通項が多い人を見つけ出したり、或いは譲れないところで相容れない人を弾いたりして1人を選別し、票を託す。当選した議員たちは、議会の会期の中で論を交え、結論を出す。
そもそも選挙で代議士を選んで政治を任せるやり方も、それに選挙や議決に使われる多数決だって妥協の産物だ。本当の意味で民主主義を貫くのであれば直接民主制が良いに決まっているし、決定の際には反対者を説得した上で着地点を模索していくべきだと思うけれど、時間に縛られているが故に仕方なく現行の方法を採用しているのだろう。

もっと言うと、民主主義自体他の政治体制と比較すると多分に妥協的な気がする。共有の徹底による平等を追求する共産主義や聖人君子の独裁のもと迅速かつ的確な統治を目指す哲人政治、支配そのものから脱脚してありのままの状態、真の平等を目指すアナーキズムなどに対して、民主主義の目的は全ての国民が平等に主権を持つこと。賢者も愚か者も区別されることは無く、到達点の設定は規定された方法論の徹底のみ。そして運営プロセス上避けられない決定の遅さと極端な意見の通りにくさゆえ、特定の理想に走ることとは相性が悪い。なんというか、遅さと慎重さを担保することで、最善になり得る可能性を捨てた代わりに最悪の事態に陥る確率を最低限に抑えた体制であるように思える。

とは言うものの、もちろんその抑制が常に十全に働くというわけではない。例えばヒトラーの政権が民主主義的なプロセスに基づいて選ばれたりズデーテンを併合したりした、というのは有名な話だ。ただ、このような例は確かに民主主義の限界ではあるけれど、民主主義固有の弱点ではないのだと思う。どのような政治体制も結局は人間が判断、運営しているのだから、必ずどこかで綻びが生じるものだ。物凄いカリスマの登場に際して、体制側が常に優位に立つことはできないのではないだろうか。人や人のつくったものによる支配にはどうしても限界がある。

それでも私は、多くの人々は、「1番マシだから」という理由で民主主義を選択する。消去法で選んだ代弁者に民主主義的なプロセスの大部分を託す。そうして彼らは限られた時間の中でほどほどに議論を交わし、決を採って方針を定めていく。私たちは妥協の連続を生きている。

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