vol.008 恐怖の正当化と自由─三島由紀夫とナメクジ
「君は水爆とナメクジとどっちが怖い?」ときけば、まず躊躇なく、 「ナメクジのほうが怖い」というだろうが、これでは水爆実験禁止論者からは頭ごなしに叱られ、世間からは笑われるのがオチでありましょう。しかし彼の答は正直なのであります。
─三島由紀夫「恐怖と自由」(『不道徳教育講座』)
ナメクジが怖い人間は、たとえ水爆だろうが散弾銃だろうが、どんなに世間が恐ろしいと思うものでも、それよりもともかくナメクジが怖いのだ。三島由紀夫はそう言った。
僕たちの社会は、いま、感染症という病に対する恐怖をそれぞれに抱えている。その対策を巡っては、政治政策への判断や思想的な価値観によって賛否両論の「分断」が生じているように思えるが、実はこうした理論的な判断や思想よりももっと深いところで、病や死に対する「恐れ」の感覚がその分断を生み出しているのではないかという気がしている。
ナメクジへの恐怖。ここに単なる生理的な感情だけに留まらない、少し入り組んだ感情があることを三島由紀夫は見抜いていた。三島自身は、ともかくカニが怖いのだという。エビは大好物なのに、カニを見るだけで恐怖を覚え、蟹という漢字を見るだけで卒倒しそうになるから「カニ」とカタカナで書くのだと語っている。
たしかに、人それぞれの怖さがある。かく言う僕もナメクジが大嫌いで、小学生のころ、紫陽花にくっついていたナメクジを間違って触ってしまい、身の毛がよだつ悪寒で、声をあげて家まで1キロほどの距離を走り続けて逃げたことを覚えている。
ちなみに、今考えてみれば、ぼくがナメクジを嫌いになった理由は明確にある。たいした話ではないのだけど、僕のもっとも古い記憶のひとつであることはたしかだ。
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