今こそ知るべき源氏物語に秘められた真相(1)


源氏物語の後半の舞台、宇治にある宇治平等院。もとは、藤原道長や宇多天皇の別荘。末法思想の影響で、道長の息子の頼通が寺に改めた。

ネットニュースで、NHKの大河ドラマで紫式部のストーリーが始まったと伝えられていた。
 それに付随する形で、源氏物語の専門家が、様々な解説をしているのを読んで、ゲンナリした。
 彼らの解釈は、1000年前の人間模様を、現代文明の中で生きている自分たちの価値観に引き寄せすぎで、自分の尺度で対象を分析するという、20世紀にレヴィー・ストロースが批判した現代の文化人類学スタンスから脱し切れていない。
 今回の大河ドラマの脚本家は恋愛ものが専門みたいで、紫式部が生きた時代のことに疎いのは仕方ないにしても、専門の学者たちでさえ欠けているのが、古代に関する知見。
 紫式部および源氏物語が、古代の影響下に存在しながら、古代と中世の架け橋になっているということがわかっていない。
 源氏物語に関する謎は幾つかあるが、まず第一に、なぜ「源氏」の物語になっているのかについて、きちんと説明されているものを見たことがない。
 源氏を藤原氏の政敵としてとらえ、藤原道長との政争に負けた源氏を鎮魂するためと説明する人もいたが、道長が娶った6人の妻のうち4人が源氏の娘であり、道長自身が、源氏と関わりが深い。そのこともまた、政敵の源氏の鎮魂だとでも言うのだろうか。
 もう一つの重要な謎は、京都の堀川通に、紫式部の墓と小野篁の墓が並んで築かれていることである。この二人は、生きた時代が200年近く違うが、両者の関係を説明する記録は存在せず、そのため、俗説として説明されるのが、小野篁は、昼は天皇、夜は閻魔大王に仕えていたという伝説があるので、恋愛ものを書いた紫式部が地獄に落ちないように小野篁を通じて閻魔大王に取りなしてもらうためというものがある。しかし、平安時代の恋愛が罪であるはずがなく、この俗説もナンセンスだ。
 源氏物語と紫式部のことを考えるうえで、「源氏」と、「小野」は、特に重要なキーワードである。
 そして、この二つと深く関わりがあるのが、第60代醍醐天皇であり、源氏物語の書き出しの「いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。」という桐壺帝の時代は、醍醐天皇の治世がモデルであると言われている。
 そして、この理想的な帝王として描写されている桐壺帝が、光源氏の父である。
 醍醐天皇というのは、歴史上唯一、源氏の身分で生まれて、天皇になった人だ。
 この醍醐天皇の墓は、京都市伏見区の小野郷に築かれている。 
 平安京を守護するための東北の鬼門は、比叡山の麓であるが、ここも小野郷である。西北の天門も小野郷で、醍醐天皇陵がある小野郷は東南の風門にあたる。4つの門のうち3つに「小野」が関わり、西南の人門だけ小野ではないが、ここに紫式部の氏神である大原野神社が鎮座している。この場所の地名は春日であるが、小野、春日、柿本は、ともに和邇氏の後裔とされている。
 鬼門にあたる比叡山の麓の小野郷は、八瀬童子と呼ばれる鬼の子孫とされる人たちが住み、歴代の天皇の棺を担ぐ役割を担った。
 紫式部と並んで墓が築かれている小野篁が、この世と冥土のあいだを行き来したという伝説が生まれたのは、「小野」が、彼岸と此岸の境界で重要な役割を担う存在だったからだろう。

 醍醐天皇が、生まれた時に源氏の身分だったのは、父親の宇多天皇が、その時、源氏の身分に臣籍降下していたからだ。
 「源氏」というのは、もともとは天皇の血統であったが、兄弟のあいだで即位をめぐる争いが起きないよう、また皇室の財政不足のため、皇室の身分を外され臣下となった者たちである。
 宇多天皇は、臣籍降下をして源氏の身分となっていたので、本来は、天皇になる筈がなかった人物であるが、この宇多天皇の突然の即位が、紫式部や源氏物語の謎を解くうえで、重要な鍵を握っている。
 宇多天皇のことを知らなくても、菅原道真のことは知っているという人は多い。
 現在は学問の神様となっている菅原道真は、もともとは祟り神だった。この菅原道真を側近として政治改革を行おうとしたのが宇多天皇だ。
 その改革がどういうものであったかは、道真の祟りによって時代がどう変化したかを見ればわかる。その変化とは、班田収授の廃止。つまり、律令制の要だった人頭税の廃止である。
 律令制は、土地を耕す人の数に応じて課税されていた。しかし、土地から逃げる農民が増え、皇室の財政は悪化していた。そして、藤原氏などの有力貴族は、逃亡農民を受け入れて、荘園経営を行っていた。
 宇多天皇と菅原道真は、これにメスを入れようとした。正しくは、宇多天皇を即位させた陰の勢力が、人頭税から、土地そのものに課税する税制への変化を望んでいた。それは主に受領など現地に赴任して行政責任を負っていた者たちで、後の武士の時代、彼らが封建領主となった。
 その代表が、源頼朝とか足利尊氏のルーツである清和源氏だった。臣籍降下した源氏は、地方政治の権限を強めていこうとしていた。人頭税の時代は、中央から地方へ派遣された役人が戸籍を作るが、土地そのものに課税されるようになると、土地の測量や収穫などの管理を地方の実力者が行い、彼らの権限と裁量が強まる。
 宇多天皇の母親の班子女王は、当宗氏という東漢坂上の一族である漢系渡来氏族である。
 東漢坂上で有名なのが、桓武天皇の時代の蝦夷征伐の将軍として活躍した坂上田村麻呂だ。
 渡来系の東漢氏は、古代から軍事力を誇り、飛鳥時代の蘇我と物部の戦いや、壬申の乱の時にも、重要な役割を果たしていた。
 そして、清和源氏の祖の源満仲が、摂津の多田盆地を拠点とした時、武士団を形成し、坂上党の棟梁坂上頼次を武士団の中心とした。
 宇多天皇の即位と菅原道真の政治改革の陰には、武力に優れたこの勢力がいた。
 しかし、荘園経営を維持しようとする藤原氏など有力貴族たちが、宇多天皇が法皇になる準備のため都を離れている隙に、菅原道真を太宰府に左遷した。 
 宇多天皇は、日本初の上皇だが、天皇の身分よりも法皇(上皇)となった方が、政治的な仕事をやりやすくなるという考えだったのだが、反対勢力に一瞬の隙をつかれて、道真が太宰府に左遷されてしまった。
 しかし、道真が亡くなった後も、宇多天皇は、上皇の立場で改革を進めた。そして、班田収授は廃止された。この改革のプロセスの中で、道真の祟りという形での反対派の粛清が行われたのだ。その陰には、清和源氏など、次の時代の主役たちがいた。つまり、彼らが殺戮を行ったのだ。
 そして、菅原道真の死後、改革を進める宇多法皇が側近としたのが藤原忠平だった。藤原氏のなかでも、忠平は、菅原道真の友人であり、道真の左遷に反対をしていた。つまり、忠平も改革派だったために、宇多法皇のもと、道真の祟りで藤原氏の有力者が次々と死んでいくなか、政治の中枢にいた。
 そして、道真の祟りの最中、藤原忠平の子孫に関しては、道真によって守られるという噂が流された。
 藤原忠平を祖とする一族は、菅原道真の祟りによってライバルの藤原氏が次々と没落していく最中、道真の祟りを利用して権限を強めていったわけだが、それを支えたのが清和源氏だった。
 藤原忠平の息子の師輔は、菅原道真を祀るための北野天満宮を壮大な社殿に作り直した。藤原師輔の息子の藤原兼家は、菅原道真を天満天神という国家の神に格上げし、この時、北野天満宮において初めて、天皇の勅使を派遣して執行する祭祀が行われた。
 そして、藤原兼家の息子こそが、藤原道長なのである。
 一般的には、藤原道長は、平安時代の貴族政治の頂点とか、藤原氏の栄華の象徴のように理解されているが、実際は違っている。
 藤原道長の時代は、律令制の基盤が崩れ、有力な藤原氏が次々と没落しており、新興勢力としての清和源氏が、力と影響力を増大させていた。
 藤原兼家の背後には清和源氏の源満仲がおり、藤原道長の背後には、満仲の息子の源頼光がいた。清和源氏の武力団が、藤原道長一族の警護を行い、蓄えた財力によって彼らを支えた。その見返りとして、さらなる権限を獲得していった。結果としてどうなるかというと、立場が逆転していく。藤原道長は、その転換点に生きていた。
 だから、彼が詠んだとされる有名な歌、「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」というのは、自らの栄華を驕っているわけではない。
 満月というのは明日から欠けていく宿命であり、平安時代の風流人にとって、それは当たり前のことである。事実として、藤原道長は、この歌を詠んで一年後に出家している。
 道長の息子の藤原頼通の時代には戦乱が相次ぎ、武士が本格的に表舞台に登場するようになり、藤原氏の権勢は衰退に向かう。
 頼通が築いた宇治平等院は、宇多天皇や藤原道長が別荘として使用していたものを、末法思想の影響を受けて、頼通が寺院に改めた。
 藤原道長も、その息子の頼通も、一つの時代が終わることを理解していた。
 そして、一つの時代の終わりと新しい時代の始まりの境に創造されたのが、源氏物語である。
 「源氏」というのは、藤原道長との政争に負けた存在ではなく、藤原道長の後に時代の主役となっていく存在である。
 この物語は、紫式部の独創的な創作物ではなく、彼女の陰には、古代から連綿と続く流れがある。
 冒頭に、紫式部および源氏物語の謎として、なぜ「源氏」なのかということと、「小野篁」と墓が並んでいる謎について述べた。
 そして、小野と源氏の両方に関わっている存在として醍醐天皇(宇多天皇の子)のことを挙げた。
 実は、紫式部のルーツに、小野と源氏が深く関わっている。
 菅原道真の友人で、道真の死後に宇多天皇のもとで改革を進めた藤原忠平が左大臣となった924年に、右大臣となった藤原定方の娘こそが、紫式部の父、藤原為時の母である。
 なぜ藤原定方が、右大臣になったのか?
 それは、藤原定方の妹の藤原 胤子が宇多天皇と結ばれて醍醐天皇を産んだことが大きい。
 藤原定方と藤原胤子の母親は、平安京の風門(南東)の小野郷から山科川を渡ったところに館をかまえていた宮道弥益の娘、列子だった。
 鷹狩の雨宿りとして宮道弥益の屋敷を訪れた藤原高藤と、宮道列子が結ばれて藤原定方と藤原胤子が産まれ、この藤原胤子と源氏の身分だった宇多天皇が結ばれて醍醐天皇が生まれた。
 つまり、紫式部と醍醐天皇は、ともに小野郷の宮道氏の血が流れている。
 宮道列子の子で、紫式部の祖にあたる藤原定方の墓が、今も、京都の小野郷の山科川の対岸に残るが、亀の背中に乗るという不思議な造形であり、海人族との関わりを醸し出している。
 

紫式部の祖にあたる藤原定方の墓。藤原定方は歌人でもあり紀貫之の後援者だった。さらに、宇多天皇や醍醐天皇と親族関係にあった。

この場所は、かつて宮道弥益の館(醍醐天皇が、勧修寺に改めた場所。現在は、その端に宮道神社が鎮座している)があった所のすぐ近くである。
 そして、源氏物語のなかで重要な役割を占めるのが、海人族と関わりの深い住吉神である。
 宇多天皇と結ばれた藤原胤子の両親は、身分の異なる宮道列子と藤原高藤だが、この二人の恋は、『源氏物語』における光源氏と明石の御方の恋のモデルとされる。
 この明石の御方の父、明石入道が熱心に奉斎していたのが住吉神であり、娘の明石の御方が貴人と結ばれて、その子が天皇に嫁ぐことを神に願っていた。
 光源氏と明石の御方の恋というのは、単なる身分違いの恋という源氏物語の中の一エピソードではなく、実は、源氏物語の主題である。
 一般的には、『源氏物語』は光源氏の恋と栄光の物語のように受け止められている。しかし、光源氏は、第41帖の『幻」で消えてしまう。死んだのか行方知らずになったのかわからない。そして、第54帖まで続く物語の後半の主役が、明石一族なのである。
 源氏物語には数多くの女性が登場し、そのほとんどが悲劇的であるが、唯一、何の曇りもなく幸福な生涯として語られるのが、明石の姫君(光源氏と明石の君の娘)だ。天皇に嫁ぎ、世継ぎをはじめ子宝に恵まれる。まさに、住吉神に願い続けた明石入道の悲願が実現する。物語の後半、明石の姫君も、その娘も、他の女性たちを死に追いやった祟りの病となるが、すぐに快復する。
 光源氏を「陽」の主役とすると、「陰」の主役が、落ちぶれた光源氏が須磨・明石の地で出会う明石入道の一族なのである。
 明石入道は、かつては都で身分のある貴族だったが、明石の地で受領となっていた。これは、藤原道長を陰で支えた清和源氏などと同じ状況である。
 そして、明石入道が熱心に奉斎する住吉神は、光源氏を救い、没落から栄光へと転換させる力となった。
 なぜ明石なのか? もちろん色々なことが考えられるが、重要なことは、住吉神が流れ着いたところが明石なのである。
 大阪の住吉大社に伝えられるところによると、住吉神は、もともとは吉野の藤代の嶺に鎮座していたが、播磨の地に遷りたいとのことで、藤の筏で大阪湾を流れ、たどり着いたところが、明石の藤江とされる。(話は外れるけれど、私の通った小学校が、この地の藤江小学校だ)。
 源氏物語の中で重要な役割を果たす住吉神が象徴するものが、いったい何なのかを考えなければ、源氏物語の謎は解けない。
 このたび発行した「始原のコスモロジー」でも詳しく書いたが、もともと住吉神が鎮座していた吉野の藤代の嶺というのは、紀伊国の土着神であった丹生都比売が鎮座していたところでもあり、紀伊国の海人族である紀氏が、新羅との戦いなどで重要な役割を果たす過程で瀬戸内海へと活動領域を広げていき、丹生都比売が、国家神としての住吉神となった。
 この住吉神は、和歌の神でもあり、住吉神と関わりの深い紀氏からは紀貫之が出ている。この紀貫之の後援者だったのが紫式部の祖にあたる藤原定方であり、彼自身が歌人でもあり、彼の歌は、古今和歌集の中にも見られる。
 そして、藤原定方と宇多天皇に嫁いだ藤原胤子の両親である宮道列子と藤原高藤の身分違いの恋が、明石の御方と光源氏の恋に重ねられていることを上に述べたが、話はそれだけで終わらず、二人の娘の藤原胤子が宇多天皇とのあいだに醍醐天皇を産んでいるので、これは、明石の姫君が天皇の世継ぎを産んだことと同じ構造である。ということは、明石の姫君を産んだ明石の御方と、藤原胤子を産んだ宮道列子が重なり、明石の御方の父、明石入道は、宮道列子の父、宮道弥益と重なる。
 紫式部のルーツである宮道弥益は、記録が一切残されていないが、明石入道と同じく、都での身分を持たない地方の受領であり、住吉神に象徴される海人勢力が背後にいる存在だったと思われる。 
 源氏物語は、光源氏が消えた後明石入道の一族の繁栄を描いて終わるわけだが、紫式部は、自らの祖に対する崇敬を、この文学の背後にこめているのだ。
 

藤原定方の墓と隣接する小山の上にある、定方の父、藤原高藤の墓。

そして、源氏物語は、紫式部一人の独創ではなく、彼女の背後には、様々な物語を伝えてきた海人族の記憶があった。
 紫式部は、海人族の営みが反映された須磨と明石の帖から源氏物語を書き始めたとされるが、その執筆の場所は、滋賀県の石山寺とされ、ここは隼人の拠点だった。
 隼人という名称は、奈良時代に入ってからだが、その拠点である南九州には、古代から海人族の勢力があった。 
 その象徴的なものが、天孫降臨のニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメの別名、神吾田津姫の名が示す吾田の海人だ。
 コノハナサクヤヒメを祀る代表的な神社が、全国に展開する浅間神社であり、総本社の富士山本宮浅間大社の神官を世襲してきたのが和邇氏の末裔で、和邇氏は、柿本氏や小野氏のルーツである。
 そして、古事記の中に登場する人物で天皇に次いで多いのが和邇氏であり、その大半は、コノハナサクヤヒメのような、マレビト(天皇)と結ばれる女性である。
 これが、源氏物語のなかで、光源氏と結ばれる女性たちに反映されている。
 紫式部のルーツは、平安京の風門(南東)の地の小野郷で、小野というのは海人族の和邇氏の末裔で、小野篁や小野小町など多くの文人を輩出している。
 もともと文学とは、伝承の文字化であり、過去と現代、彼岸と此岸を結ぶものだった。そして、紫式部の祖で歌人でもあり、さらに紀貫之とも関わりの深かった藤原定方の墓が亀の背に乗った形をしているということから、紫式部の創作には、海人たちが語り継いできた伝承が反映されていても不思議でない。 
 冒頭に述べたように、源氏物語が、古代と中世の架け橋であるというのは、海人たちによる古代からの記憶と、清和源氏に象徴される新しい時代の到来の予感が重なり合って、源氏物語のなかで描かれているからである。
 紫式部にとって「源氏」とは、彼女の祖にあたる藤原定方の親族にあたる宇多天皇や醍醐天皇が源氏の身分から天皇になったということで意味があり、その身分を超えての即位の背後に、時代の転換が関わり、その陰に、海人族の和邇氏の後裔である「小野」や、地方で実権を強めようとする新興勢力がいた。
 そして、紫式部が源氏物語を書くことを支援した藤原道長にとっての「源氏」とは、6人の妻のうち4人の実家であるとともに、彼を支えた勢力が清和源氏であったことにおいて意味があり、これもまた時代の転換と関わっている。
 源氏物語が、文学少女の紫式部と、栄華の絶頂にあった(と思われてしまっている)藤原道長の恋愛の擬似的な物語などという解説は、あまりにも陳腐すぎる。
 そのような陳腐な解釈に対して、「世界に誇る日本文学」などというキャッチフレーズを組み合わせてしまうと、日本という国が、いったい何を世界に誇りたいのか、まったく解せなくなる。
 過去に対する迷妄は、未来に対する迷妄でもあると思う。

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