荘子の説く道と、東京での暮らし。


私が東京に暮らし始めたのは、海外放浪から戻ってきた22歳の時で、成田空港に到着してすぐ戸越銀座に向かい、駅のそばの不動産屋で、家賃1万6000円の北向きの4畳半、風呂無し、トイレ共同のアパートを見つけて、その日から入居した。(戸越銀座が都心に近いわりにはアパート代が安く、商店街も大きくて生活に便利という情報は事前に得ていた)。
 手持ち金が10万円しかなかったので、敷金礼金と1ヶ月の家賃で80,000円くらいまでが条件。そして、その日のうちに入居できる物件というのが理想だったが、その通りの物件が、成田空港に到着したその日に見つかったのはラッキーだった。
 その前々日まで、パリの屋根裏部屋の3畳もない狭い部屋(トイレ共同で風呂なし)に住んでいて、寝具は寝袋だったので、引越し荷物も必要なく、部屋に入ってその日から畳の上で寝袋で寝られるのは至福だった。
 何よりも、銭湯がすぐ近くにあり、ずっと週に二回ほどのコインシャワーで過ごしてきたので、湯船で思い切り手足を伸ばせるのは極楽気分。その銭湯の正面にコインランドリーもあった。
 アパート代を払って手持ち金は20,000円になったので、翌日、食事付きのアルバイトを探そうと思い、アルバイトニュースで田町の慶應中通にある居酒屋を見つけて、すぐに夕方5時から11時まで働き始めることができたので、食うことにも困らなかった。
 戸越銀座は五反田まで一駅。東京の雰囲気を身近に感じられるところだった。
 私は、海外放浪前、大学は筑波の田舎暮らしだったので、東京で暮らし始めた頃の毎日は、とても新鮮だった。
 昼夜逆転の生活がしばらく続いたが、ある日、居酒屋の職場に向かう時、田町の駅前の交差点で、反対側からやってくる帰宅に向かう大勢のサラリーマンとすれ違う時、自分だけ別の時空を生きているような気分になって、少し考えるようになった。そして、その当時、読み耽っていた日野さんの本の言葉の影響もあり、昼に普通の会社で働いてみようという気分になった。
 日野さんは、それまでの小説家が、「小説を書くには女と酒だ」などと言って威張っているのを嫌っていた。
 アウトサイダーの立場にいるかぎり、ずっとアウトサイダーのままだ。社会で普通の人が普通にやっていることをできないことをコンプレックスに表現するだけだと、けっきょく対立概念の中で表現を繰り返すだけ。
 普通の人が普通にやっていることを自分もやって、その上で、どこに向かうかが大事だ。
 日野さんの考えは、そういうものだった。
 同じ老荘思想でくくられる荘子と老子だが、日野さんの立ち位置は、荘子だった。
 老子の説く道は、世俗世界で、物質的ではなく精神的に幸せに生きるための人徳者のモラルであるが、荘子は、世俗世界の泥まみれの事態も含めて、万物をあるがままに受け入れ、その中で、遊び戯れるというスタンスだ。
 老子の説く「道」は、それ自体は変化しない永遠の徳のようなもの。しかし、荘子の「道」は、刻々と流転と変転を繰り返すもので、自らもその変化に乗っていくというダイナミズムがある。
 そういう荘子からすれば、孔子の「まとも」さは、常識的な思考と世俗的な価値が権威を持つ世界における固定された条件内のものにすぎず、実に了見が狭い思想だということになる。
 日野さんから影響を受ける以前に、私は、老子の「自然思想」は、自分が見たくないものは見ていない良識人の説教のようにしか感じられなかったし、孔子の「社会思想」は、2500年前の春秋戦国時代においては斬新だったかもしれないが、現在では固定概念のような常識的道徳であり、社会などの体制を変化させたくない立場のものには実用的だろうが、新しい社会を夢見る若き自分にとっては、あまり面白いものではなかった。
 やはり、大学を辞めて、ドロップアウトをしたことで世の中の底辺にいた自分には、荘子のダイナミズムと軽みが、一番魅力的だった。
 そういうこともあって、夜の5時間ほど食事付きの居酒屋で働いて、それ以外の時間は読書三昧という生活のまま続けていくと、それなりに安定した日々であったが、頭も感性も停滞してしまいそうな悪い予感もあった。そして、時代の激しい流れをもっとも感じられるような領域に没入しようという意欲が湧き、その当時、その領域は広告とかマーケティング分野だったので、なんとか、その種の会社の底辺部に潜り込めた。
 自分の立場は極めて弱かったものの、20代の後半、都心の煌びやかな場所に聳える立派な高層ビルにオフィスを構える東芝とかHONDA、銀座のカネボウ化粧品とか電通、そして、まったく新しいビジネスモデルで躍進中のセブンイレブンなどの仕事に携われたことは、自分の潜在意識のなかに、いろいろなものを蓄える経験になったと思う。
 そして、巨大企業のクライアントは弱小企業の若造社員にとって神様であり、相手の一言で振り回される日々は、まさに世俗世界の泥まみれの事態の連続だったが、荘子の精神である「軽み」で、けっこう前向きに乗り切っていたし、戯れのような私のアイデアが、評判になることもあった。
 たとえば某化粧品会社のチェーン店のショーケースなどの装飾がメーカーが作った POPばかりだったので、私は、店単位で折り紙でPOPを作って、オリジナルコピーを、それぞれが考えることを提案した。そして参考例を伝える パンフを作り、恐竜の折り紙には「シミとソバカスは、困るでザウルス」とか、オットセイには「お肌の汚れをオットセイ」など色々と紹介し、販売店向けのイベントで具体的に見せたり、その説明パンフを配ったりした。
 そうした成果がいくつかあったためか、出世して給与も上がっていったのだが、ずっとそういうことを続けたかったわけでもないので、30歳の時にドロップアウトした。
 思えば、22歳の時から52歳まで、東京の中で働き、東京の中で生きていた。
 2014年に東京から京都に移住したので、あれから10年が経った。
 2020年の秋、コロナ禍の時、東京の郊外に拠点を作り、東京と京都を行ったり来たりしてきたが、あくまでもその二つの場所を結ぶあいだの色々な場所を探究するためであり、東京の都心に入ることには抵抗感があったし、この10年間、興味もなかった。
 なのに心境の変化というのは面白いもので、今、東京の都心部の写真をピンホールカメラで撮り続けている。
 そして、東京を避けるようにして古代世界に没入していたことが、東京世界と、一本の線でつながってきた。
 そして、この流れは、けっきょく荘子の言葉につながっているのだということを、ここ数日で自覚し、認識することができた。
 なるほど、そういうことだったのかと。
 色々と変化してきてはいるが、時代や社会に流されているわけではなく、おしなべて、何かしらの縁が働いていて、縁の力が変化につながっている。
 縁の力は、必然ということでもあり、東京というカオスのなかにも、その必然性は宿っている。

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