迦微(かみ)に出会うところ
奥山の岩に苔むし 畏(かしこ)けど思ふ心を いかにかもせむ
よみ人知らず(万葉集)
日本の国歌の「君が代」においても、「苔のむすまで」という言葉があるが、むす」は、「産す」であり、万物を生み出す「かみ」の存在が、そこに意識されている。
なので、この万葉集の「よみ人知らず」の歌は、「苔むした岩は、神々しく、近寄りがたいものがあり、その気持ちをどう表せばよいのかわからない」と歌っている。これは、「かみ」に対する心だけれど、この場合の「かみ」は、現代、世界を激しい分断と対立に導いているユダヤ教やイスラム教やキリスト教といった一神教の「神」ではない。
万葉仮名で、「かみ」は迦微と記されていた。迦は「巡り合う」、微は「かすか」。すなわち、「かみ」とは、自然界を巡る目に見えないエネルギーであり、それこそが、万物生成の根元に宿る力だと、日本のいにしえの人々は、受け止めていた。
日本人の信仰宗教は、八百万の神とかアニミズムが元になっているとよく言われるが、樹木とか岩石とかの物体そのものではなく、その背後に流れている力こそが迦微(かみ)であり、神仏習合において、その迦微(かみ)は、修験道の蔵王権現や、密教の大日如来などのように、実態はよくわからないけれど他の仏や神々に化身となって顕現化する存在と重ね合わされた。
国歌の「君が代」は、「君が代」という言葉こそが、この歌の本意を歪めてしまっており、それを無意識に感じるからこそ、多くの日本人が、国歌を歌うことに対して素直な気持ちになれないという問題がある。
「君が代」という言葉の後に続く、「千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで」においては、無限の連なりと重なり合いと、さざれ石という岩の破片が集まった状態が、いつしか岩そのものになるという神話的な時間と、万物を産み出す神々しい苔むした状態というスケールの大きな時間の流れと宇宙観が示されている。
この述語の主語が、「君が代」と限定されてしまっていることが問題なのだ。
この国歌の元になる歌は、古今和歌集のなかの「読み人知らず」の歌だった。
冒頭の万葉集の歌もそうだが、「読み人知らず」を侮ってはならない。
現代のように自己主張の甚だしい時代の価値観では、有名人=みんなに認められて活躍している人、無名人=それほど活躍していない人、と分別してしまうが、たとえば長く伝えられている重要な祭祀が秘儀であるように、個人が特定されたり、多くの人が知っているようなものは、時代の流行に添った限定的な価値にすぎないということがある。
全てとは言わないが、敢えて名前が伏せられて詠まれている歌の中には、秘儀に通じるものもある。
国歌のもとになっている歌は、
わが君は千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで」
よみ人知らず(古今和歌集)
だった。
よみ人知らずが詠んだ「わが君」は、限定的な存在であるとは思えない。
この主語は、スケールの大きな述語から想像できるように、迦微(かみ)のことだろう。
西行は、「わが君」のことを、「なにごとのおわしますかは知らねども」と詠んだ。
現代の言語感覚だと、「わが君」という言葉だと限定的に聞こえてしまうので、国歌にするならば、限定的にならないよう別の言葉に置き換える必要が出てくる。
「なにごとのおわしますかは知らねども 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで」としても、本来の意味は崩れないが、声を出して歌いにくい。
私の個人的な感覚では、古事記の書き出しにある「あめつち はじめて おこりし時 」の「あめつち」という神話的なスケールを感じさせる言葉がいいのではないかと感じている。
「あめつちはじめの時、高天原に成なれるかみの名は、あめのみなかぬしのかみ。次に、たかみむすひのかみ、次に、かむむすひのかみ。」
「あめつち」は、人間の尺度を超えた広がりのある時空であり、その時空を満たすエネルギーが、様々なものを「むすぶ力」=「むすひのかみ」であり、古代日本人は、その潜在的な力を迦微(かみ)とみなし、その力に対して、畏れと敬虔なる気持ちを持ち続けていた。
だから、日本の国歌も、「あめつちは 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで」となると、素直な気持ちになって歌えそうな気がする。
現代の日本社会は、西欧近代文明の根幹に宿る万物の尺度を人間に置くという傲慢さを価値基準とし、人間の計画や設計を第一に、人間の論理で、一つの正しい正解を求めたがる世界の中に生きている。
計画性や論理性に基づき、一つの正しい答えを求める思考特性は、近代合理主義の産物にすぎず、そうした思考特性を持たない近代以前の人間が、今よりも劣っていたわけではない。
たとえば、設計図に基づいて計画的に作った現代の建築物より、設計図をもたないけれど自然の摂理を読むことに長けた敬虔な職人が、樹木の特性を汲み取って作り上げた建築物の方が、はるかに長い歳月を耐え抜いて存続している。
温故知新というのは、単に昔のことを調べたり知るだけでなく、古きを温ねて、新たな道理を導き出し、新しい見解を獲得すること。
邪馬台国の場所とか、日本人の起源をDNA鑑定で探るといった知的好奇心も時に必要かもしれないけれど、それよりも大事なことは、歴史の大きな流れの中に自分が存在しているリアリティを感じ取ること。
私たちは、決して、今この瞬間の限定的な時空に閉じ込められて生きているのではなく、無限に積み重なる命の巡り合いの中に存在し、そのうえで、人それぞれ固有の課題に向き合っている。
人間よりも遥かに長い時代を生きてきた動物たちにとっては、生殖であったり子育てという形の本能で、過去と未来のあいだに橋を架けることが明確に現れているけれど、遅れて地上に誕生した人類には、全ての人が当てはまるわけではないものの、マズローの欲求5段階説のような、生殖や食欲以外の本能的欲求がある。
その欲求もまた、過去と未来のあいだに橋を架けるという生物本来の本能と重なっているはずだけれど、問題は、人類の歴史がそれほど長いわけではないので、経験が未熟で、その本能(欲求)の使い方を、時々、大きく間違ってしまうことではないかという気がする。
こうしたことを踏まえて、7月27日(土)、28日(日)、京都の松尾大社周辺で、フィールドワークとワークショップセミナーを開催します。
詳細と、お申し込みは、ホームページにてご案内しております。
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/
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