日本人の心がどう作られてきたのか。「いろは歌の果たした役割」

(日本人の心が、どう作られてきたか)。
 私たち日本人は、日本語を使って物事を理解し、日本語を使って物事を考えている。だから、私たちの思考やイメージが日本語の影響を受けていることは当たり前であり、日本文化も、日本語という言語の特質を抜きに存在しえない。
 日本人とは何か?という問いにおいて、日本人の起源をめぐる色々な議論はあるが、外国の地からこの島国にやってきた人たちでさえ、世代を重ねていくと、日本語による考え方や理解の仕方の影響を受けて、「日本人」になる。
 その日本語を構成するもののうち、仮名文字の創造は、日本の歴史上、極めて大きな出来事だった。
 この仮名文字の登場によって、中世日本では、一般の人々のあいだでも文字が使われるようになったが、近代教育普及以前に、日本ほど一般庶民が高い識字率を誇っていた国は、ほかにはない。
 そして、中世日本において、仮名文字の普及に貢献したのが、「いろは歌」だと言われる。
 「いろは歌」は、かなり古い時代から日本人全体を巻き込みながら綿々と伝わってきたもので、私たちが使用する「ひらがな」が一字も重複することなく、全部収まっている。
 「いろは歌」は、一般的には平安時代から手習いとして活用されていたが、鎌倉時代以後から急速に普及した。「いろは歌」の一字一字を大きく書き、それぞれに、そのひらがなの形、筆さばきの注意などを解説し、手本を示した書物などが、多く残されている。
 そして、「いろは歌」は、どうやら識字率のあげることに貢献しただけでなく、芥川龍之介が『侏儒の言葉』の中で「われわれの生活に欠くべからざる思想は、あるいは「いろは」短歌に尽きているかもしれない。」と書き残しているように、日本人の心の在り方にも影響を与えていた可能性がある。
 いろは歌の「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす」の元は、「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせず」という意味だとされる。
 そして、さらにこの元になっているのが、「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」である。
 (諸行は無常なり、是れ生滅の法なり。生滅(への囚われ)が消えてなくなれば、煩悩から離れ、それは死と変わらぬ安らぎである)。
 「浅き夢見し」が、否定の「じ」なのか、過去の「し」なのか、「我が世誰ぞ」の「ぞ」の扱いが不自然だとか、いろいろ議論はあるが、「この世のすべて、例外なく、やがて散りゆく運命にある。はかない幻想を抱いたり、夢中になったりすることは、空しい」と解釈されて、1000年を超えて人々のあいだに伝えられてきたということが、日本人の心や、日本文化を考えるうえで重要だろう。
 ちなみに、今日の世界を多い尽くすヨーロッパ文明だが、ヨーロッパにおいて識字率が高まったのは、西暦1450年頃に、グーテンベルクによって活版印刷が発明されてからだ。
 それ以前、人々は、教会の神父などから聖書の内容を聞いていた。しかし、活版印刷技術によって聖書が印刷され、そのことによって、聖書を重視するプロテスタントと、従来のカトリックの対立が生じ、宗教戦争が起きたことは学校の教科書でも習う。この宗教戦争の時に、大量の印刷物が刷られた。その内容は、敵を悪魔の使いとして描くもので、紙に印刷されたデマが、宗教戦争における殺戮を、いっそう激しいものにしたと言われる。
 近代哲学の祖とされるデカルトも、このデマによってドイツ30年戦争に志願兵として身を投じたのだが、戦争現場で現実を思い知ることになる。
 そして、世の中に出回っている言説を全て疑い、すべての人が自分の頭で真理を見いだすための方法を求めて思索を重ねて、「方法序説」(1637年)を書き起こす。
 「我考える、ゆえに我あり」というヨーロッパ近代哲学は、この時から始まった。
 しかし、ヨーロッパ近代哲学は、厳密な学であろうとしたため、次第に難解を極めるようになり、日本の「いろは歌」のように、一般の人々の人生訓になるようなものではなかった。
 日本の中世文化では、為政者は、茶道や石庭などにも通じる禅文化や能を大切にした。そして庶民には芸能や念仏信仰があった。中世の禅文化や能は、「いろは歌」が作られた頃にピークを迎えていた仮名文字文学における最高峰の「源氏物語」に織り込まれた「もののあはれ」の思想が受け継がれている。そして、中世の芸能や念仏信仰には、「いろは歌」で示されている無常観が反映されている。
 欧米文明のなかで、広く一般的な人々に対して、文字が最初に果たした役割が宗教戦争において敵対感情を煽るものだったことは、現代文明を考えるうえでも象徴的なことだと思われる。
 現代の文明社会においては、日本の政治でもそうだが、言葉は敵対する相手との議論のために使われることが多い。アメリカの裁判などは、説得力のある言説で論破できた方が正しいということになってしまっている。
 それに対して、日本人の識字率を高め、心の形成にも関わっていた「いろは歌」の内容は、それとは逆に、形ある世の無常を伝え、自らを謙虚にする方向に働きかけている。その延長上に、中世の日本文化が育まれていった。
 この「いろは歌」は、長いあいだ、様々な謎に秘められた歌だと議論の対象となり、暗号が盛り込まれているなどとも言われてきた。
 まず、この歌の作り手が誰なのかというのが最大の謎になっている。
 このことは、1000年も前から、あれこれと論じられてきた。
 きわめて優れた内容の和歌を高い技術で創作することができ、仏教の叡智にも通じる傑出した人物。
 古くから空海だという説があった。また、いろは歌の中には、暗号のように柿本人麿の名が織り込まれているという説もある。
 その謎を解く鍵として、かなり以前から注目されていた言葉が、「とかなくてし」—「とが(咎)なくて死」だ。
 日本最古の「いろは歌」の記録が、「金光明最勝王経音義」(著者未詳。1079年)の巻頭に書かれてあり、それは、このように万葉仮名で書かれている。

以呂波耳本へ止
千利奴流乎和加
余多連曾津称那
良牟有為能於久
耶万計不己衣天
阿佐伎喩女美之
恵比毛勢須

 この万葉仮名で書かれた「いろは歌」で、注目すべきは、「へ」の文字で、これだけが仮名文字を使われていることがわかる。
 なぜ、「へ」だけを仮名文字にしているのか?
 「へ」というのは、もともとは「うへ」=「上」という意味をもっていた。「うへ」という単語のウが母音に融合して消えて「へ」となった。
 「いろは歌」の作者は、あえて「へ」を用いることで、「上」を強調している。「へ」の上、つまり、一番右側を縦に読むと、「とかなくてし」となる。

いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
 
「とが(咎)なくて死」、つまり罪に陥れられた悲運の天才歌人は誰なのか?ということで、柿本人麿という説が出てきた。
 しかし、現代の国文学者や言語学者のほとんどが、「いろは歌」の奈良時代成立説を否定している。その理由は、奈良時代の母音は、現在のように「五母音」ではなく、「アイウエオイエオ」の「八母音」であったと考えられているからだ。さらに奈良時代にはア行の「え」とヤ行の「え」との発音上の区別があったけれど、いろは歌」には、「え」は一字しかない。
 そして、「八母音」の日本語は、平安時代になる、現在の「五母音」になった。
 このことに対しては、「八母音」説に疑問を投げかけ、「万葉人も母音は五つ」とする学者も一部には存在する。
 そのことはともかく、「いろは歌」を仮名文字で記した「金光明最勝王経音義」を見ると、真ん中に、計不 有為 連曾 奴流 という漢字が明確に記されている。
 「思いもかけないことに、空しき因縁によって、かつて、連座して、流された奴」となる。
 上にあげた「とかなくてし」と呼応する言葉だ。
 そして、この暗号の中の「有為」を左右に挟むようにして、「良牟」=「らむ」と、「能於」=「のお」があり、「らむ有為のお」となっている。
「有為」というのは、因(直接条件)と縁(間接条件)が合わさって造作された現象的存在で、無常=「形あるもの」となる。つまり、「かた」だ。 すると、この一行は、「らむ」「かた」「のお」となるのだが、一番左端の「とかなくてし」の縦一列から横に読むと、「おのたかむら」となる。
 「おのたかむら」という名前と、計不 有為 連曾 奴流という文字に秘められたメッセージ、「空しき因縁によって、かつて、連座して、流された奴」が交差する。
 これは、小野篁(802-853)のことであり、彼もまた、日本の歴史上に残る優れた歌人であった。
 百人一首のなかにある「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟」は、小野篁が、遣唐使の船に乗ることを拒否して堂々と朝廷を非難するなどし、官位を剥奪されて隠岐国に流された時の歌だとされる。この時、篁の息子も連座で、肥後に流されたという説がある。
 また嵯峨天皇から投げかけられた言葉遊びの「子子子子子子子子子子子子」(ねこここねこ ししここじし)を見事に解いたことや、落書きの「無悪善」の意味を、(悪(さが)=「嵯峨」無くば善からむ)と読み解いたこと、嵯峨天皇が戯れに白居易の詩の一文字を変えて篁に示したところ、篁は改変したその一文字のみを添削して返したなどというエピソードも多く、高度な言葉遊びの術を心得ていたことが知られている。
 そして、「いろは歌」と小野篁をつなぐ決め手となるのが、『和漢朗詠集」(1013年頃)の中で、小野篁が残している漢詩であり、それは、このようなものだ。
「人無更少時須惜。年不常春酒莫空。」(「暮春」)
人(ひと)更(かさ)ねて少(わか)きことなし、時(とき)須(すべか)らく惜(を)しむべし。
年(とし)常(つね)に春(はる)ならず、 酒(さけ)を空(むな)しくすること莫(なか)れ。
 この歌の中の「酒を空しくすることなかれ」の意味として、「酒を楽しもう」と訳しているケースが多いのだが、「酒を無にするな」を、ただ「酒を楽しもう」とするのは安直すぎる。酒を無にするなというのは、「酔生夢死」という、わけもなく酒に酔ったような、ぼんやりと、空しく一生を過ごすような状態であってはならないということだろう。
 そう捉えると、この小野篁の漢詩は、いろは歌の「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせず」と重なってくる。
 「いろは歌」は、全ての仮名が使われているので、「かきのもとひとまろ」という名を導き出すことは不可能ではないが、その説を唱えている人の説明が強引すぎる。
 「おののたかむら」の方が、はるかに自然に導きだせる。
 何よりも、柿本人麿の歌は、「いろは歌」ほど仏道色が濃いわけではない。
 小野篁の場合は、「花の色は 雪にまじりて 見えずとも かをだににほへ 人のしるべく」 (花の色はわからなくても、せめて香りだけでも漂わせてほしい)という歌も詠っているし、小野篁の孫という説もある小野小町にも、「 花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」というのがあり、この二人の歌には、「いろは歌」に通じる無常観が、極めて強く感じられる。
 そして、この小野篁だが、京都に住んでいる人にはよく知られているが、京都の堀川通に、なぜか紫式部と隣り合わせになって墓が築かれている。
 以前にも何度か書いているが、紫式部というのは、実は、「小野」と深い関係にある。
 紫式部の父母の系譜を辿ると、宮道氏につながるが、宮道氏というのは、京都山科の小野郷に館を構えていた。現在、そこには宮道神社が鎮座しているが、祭神は、宮道氏の祖神とされるヤマトタケルであり、ヤマトタケルの母のイナビノオオイラツメは、播磨風土記では、和邇氏の娘と記録されており、和邇氏の後裔が小野氏である。
 小野氏というのは、勅撰漢詩集の『凌雲集』は編纂した小野岑守や、小野篁、小野小町、小野好古、小野道風(書の三蹟)、小野美材など、優れた文人が多い。
 また、小野氏の祖である和邇氏も、古事記のなかに登場する人物でもっとも多いのが和邇氏であり、柿本人麿の柿本氏も、和邇氏の後裔であることから、この勢力は、物語の伝承および文字表現と深く関わっている可能性がある。

 また奈良時代の記録では、それまで口承伝承の役割を担っていた猿女氏の領分を小野氏が奪っているという訴えが、猿女氏から朝廷に提出されているが、口承は、奈良時代以前においては物語伝承において大きな役割を担っていたが、古事記や万葉集が生まれた奈良時代は、口承が衰退していき、文章表現が、より重要になっていくわけで、猿女氏の訴えは、そのあたりの時代変化が反映されているのかもしれない。
 紫式部が書いたとされる源氏物語は、単なる男女の逢引の物語ではなく、古代の様々な伝承が重ね合わされており、そのうえで、「もののあはれ」の思想が、底流にある。
 これは、紫式部一人の才能によるものとは思えず、小野篁と紫式部の墓が隣り合わせに築かれていることからも、小野氏とのつながりによって描き出された可能性が高い。
 そして、源氏物語に秘められた「もののあはれ」の思想は、上に述べたように、中世日本において禅文化や能などを通して、武士や貴族などの為政者に大きな影響を与えた。
 また、庶民の識字率を高めることに貢献した「いろは歌」の成立の背後には、小野篁がいた。
 すなわち、日本人の心を作り、日本文化を育ててきた原動力であった文字表現に、「小野」が、深く関わってきたということになる。
 この「小野」=「和邇」という存在が何ものかを含めて、さらに律令制が整えられた時代に遡って、探っていくことにする。(続き)

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