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(6) 彩子 ー 今日の日に

「どうしたの源さん?朝っぱらからタマに向かって、何ひとり喋りしてんのよ」
コートの袖に手を通しながら彩子が源造に声を掛けた。

「おう、彩坊か何でぇ早えじゃねぇか。いつもこんな時間か?会社勤めも楽じゃねえんだな」
半袖のTシャツ姿で体操でもしているつもりなのだろうか、迷惑そうな顔をしたタマをダンベル代わりに上下させながら源造は彩子に向かってそう言った。

「源さんやめてよ、タマが可哀想じゃないの。何のつもりなの?猫に向かって真冬に半袖姿で喋りかけてたりしたらみんな変に思うわよ」
たまらず彩子がそう言うと、
「てやんでぇ、朝っぱらから言うじゃねえか彩坊。何か?真冬によ、半袖で体操しちゃあいけねぇとでもいう法律でもあるのか!可愛い飼い猫によ、話しかけちゃ変かよ?冗談じゃねえぞ。おいらよ、彩坊、ちょいとよ気づいたことがあってよ、今こいつに話してたとこなんだよ。猫はよ、犬になりてぇとかライオンになりてぇとか考えちゃいねぇんだよ。きっとな・・・”分”ちゅうのをわきまえているっちゅうかよ!人間なんざ偉くなりてぇだとか有名になって金持ちになりてぇとか浅ましいもんよ。だからよ、タマなんか
人間様よりずっと上等だっちゅうの。ちょっと前にそのことに気づいてよ、何とかタマに伝えてぇと思って、お前は人間なんざよりずっと偉ぇもんだと言ってたとこなんだよ。彩坊、そうは思わねぇか?」

源造はタマを無造作に抱いたまま一気にまくし立てた。

「帰りに寄るわよ。少し遅くなるけどイキのいいとこ残しといてよね、源さん。続きもっと話してよね。その”分”というやつ」
「あいよ、行っといで。気ぃつけて行くんだぞ彩坊」

彩子の勤める病院は、二百床を有する都内では中規模の総合病院であった。
彩子はビジネススクールの医療秘書・事務科を卒業後、この病院で医療事務の仕事に就いていた。特にこの仕事に興味があった訳ではなかったが、大学入試に失敗して浪人するのも・・・という程度の思いから、こういう経過であった。

就いてみると、意外と彩子は自分に合っている仕事だと実感する様になり、今では気に入っているのであった。

「彩子、今日付き合ってくんない?」
同僚の美佐がディスプレイの向こうから顔を出し、すまないといった風な顔をして両手を合わせた。
「何?どこへ?」
「大きい声で言えないけどさ、小児科の山下先生からごはん誘われてんのよ。一人じゃあちょっと・・・という感じでさ一緒に来てよ、お願い」
「美佐、それはダメよ。先生にしてみたら美佐を誘ってるわけだから、私が一緒だったりしたら困るわよ。一人で行きなさい。どうしても嫌ならはっきりお断りしないと・・・」
「そうも行かないのよね・・・。やっぱり相手はDrだし・・・無下に断るのもね、候補としてはキープしときたいじゃない」

美佐は企んだ時の顔をしながら、
「そうね、やっぱりマズいわ。あんたを連れてったりしたら、私、不利だわ。あんたを先生に会わせたりしたら・・・そうね、一人で行ってみる。ごめんね彩子」そう言いながら、美佐は彩子に向かって両手を合わせてみせた。
「美佐、あなたが中断させたんだからお茶でも入れてよ。ちょっと休憩しようよ」
「うん、いいよ。コーヒー?それともお茶がいい?」
美佐は機嫌よく彩子の誘いに応えながら、
「彩子、彩子ったらどうしたの?物思いにふけって・・・。目の焦点が合ってないぞ。恋人でも出来たか?」
「えぇ、ごめん、ありがとうコーヒー」
「どうしたの彩子、放心状態だったよ。本当に大丈夫?」
「何でもないよ、ちょっと考え事してただけだから。ありがとう」

いつもの様ではなく、足早で歩いている自分に彩子は気づいていた。

「ヘイ、らっしゃい。おぉ、彩坊か、奥へ来な。イキのいいの残しといたぜ。違うか、ただ余っただけだったりして・・・。何でぇ何でぇ朝の元気はどうしたんでぇ、ネタが腐っちまうぜ。あがり一丁!」
「源さん、あがりいいわ。今日は一本つけてちょうだい。呑みたい気分なの」
「ほう、生意気言うじゃねえか。お銚子一本熱燗で、どうしたんでぇ、朝の勢いはどこへ行ったんでぇ。まぁいいか、帆立食ってみっか?今日はこれだこれ!」
「源さんいつか言ってたわよね。ほら、市ヶ谷の釣り堀でさ、毎日来てるおじいさんがいて釣り針つけないで糸垂らしているんだって話・・・あれ、もう一度してよ」
「オメェよぉ、深刻そうな顔するこたねぇよ。そうなんだよなぁ、そのじいさん時々竿上げんだけどよ、一向に餌つける様子もねぇしよ、浮が動かねぇんだよ。おいら隣にいてよ、不思議でな。放っっとけばいいんだろうけどよ、こちとら解せねぇからよ、まぁ勇気が要ったんだけど、ある日聞いてみたんさ。そしたらよ!「よくお聞き頂けた」っつう訳よ。それって武士か僧侶の口のきき方よ。きっと偉ぇ人に違いねぇんだよ。またそのじいさんの言うにはよ、釣った魚は放しても死んじまうんだとよ。魚には痛覚ってのがなくて針が刺さっても痛かねぇんだと。だけどよ、人が手で触るだろ、その人間の体温で体調崩すらしいんだな、これが。スゲェだろ?そう言やよ、水ん中にいる魚なんぞ水と同じぐれえの体温よ。それが人の体温に触れた日にゃあそら大変よ。釣ったら釣ったでちゃんと食ってよ、成仏させるって訳だ。食わねぇなら、何て言うの?キャッチアンドリリースってのか?そんなことしたって人間の身勝手っつうかよ、”分”をわきまえねぇ人間の愚かさよ!人間の身勝手の為に生き物を犠牲にしねぇっつうわけよ。だから針つけねえんだ。じいさん立派だろ?おいら感激しちまってもう一度会いてぇと思って何度か市ヶ谷くんだりまで行くんだけど、その日以来じいさん見かけねぇんさ」

彩子はテンポの速いべらんめえな源造の話に懸命についていった。疲れでもしたのだろうか、全身の力が抜けていく感じがした。

「源さん、今朝言ってた気づいたことがあってタマに話しかけていたって、そのことだったの?」
「そうよ、それそれ。そのじいさんの話はよ、半年めぇのことなんだけどよ、おいら学校も満足に出てねぇしよ、はなっから分かりっこねぇと自分でおもってたからよ、スゲェことだったのによ・・・それがオメェつい先だってよNHKにそのじいさん出てんだよ。驚いちまってよ・・・偉ぇもんだぜ、やっぱりただの人じゃねぇって思ってたんだけどよ、ついこの先の東京デェガクの哲学の教授だって言うじゃねぇか・・・何でも偉ぇ人らしいぜ。そのじいさんのひとり喋りよ、じいさんが話のとちゅうからよビックリよ、おいらとよ、釣り堀で会った話なんかだしちゃってよ、”分”をわきまえた江戸っ子の板前さんに会っていろいろ話を聞いて・・・自らが恥ずかしくなったわけです・・・なんて言っちゃってさ。おいら番組観ててこんがらがっちゃってタマ踏んじゃった訳だよ。それで、それ以来その釣り堀に出向けなくなりまして・・・とか言っちゃってんだよ。おいらに断りもなしにあんな話しちゃっていいんかよと思ったけどよ、悪ぃ気しねぇからさ、おいらがその”分”をわきまえている板前っちゅうわけよ。それほどでもねぇけどよ、だからよ、考えてもみたらそのじいさんが言うようによ、犬になりてぇっつう猫はいねぇしよ、人間だけが”分”をわきまえねぇのが沢山いるらしいやね。だから可愛いタマをちょっと褒めてやりてぇと思ってよ、今朝言って聞かせてたっちゅう訳よ」
「すごいね、それってすごいよ。迷ってたけど聞いてみて良かった」
彩子は感動を込めてそう言った。
「彩坊、そうだろ、スゲェじいさんだろ?」
源造がネタケースから身を乗り出すように同意を求めた。
「ううん、違うよ違うよ源さん、すごいのは”分”をわきまえている源さんとタマなのよ」

店を出た彩子は、コートの襟を立てると大きな伸びをして空を見上げた。凛とした冷たい夜気が、ぶるっと彩子の身を震わせた。彩子はふと今別れてきたばかりの源造の「おいら、学校もろくに出てねぇからよ」と言った時の笑顔を思い浮かべた。身体の内から感じたことのない湧きだすような熱さを感じていた。

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