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大きな幸せと、小さな幸せ

暮らしの幸せ、人生の幸せって、サイズ感あるよなぁと思います。

タワマンに住んだり、外車に乗ったり、カッシーナのソファとかは大きな幸せです。セリアやしまむらで買い物したり、コンビニのスイーツで癒されるのは、小さな幸せです。

思いついた感じで書いたのでひどいたとえですが、大体こんな雰囲気でした。

あと、「小さな幸せ」の方が、世では尊ばれる感じがしており、しまむらやセリアも店内放送で”日常のちょっと幸せをアゲる”というのを常時放送で流していたりもします。庶民への寄り添いホスピタリティがすごい。

サイズがバラバラなのに、気にせず色々感情のままに手に入れようとすると、人生がかなり大変な事態になります。

小さいなら小さいでまとめる、大きいなら大きいでまとめる方が、迷いや不幸、不満や不安は減る気がしており、それがまあこれまでです。


わたしがこれまで、街の全体の雰囲気として「大きな幸せ得てるチーム」のエリア(セレブリティ)、「小さな幸せ得てるチーム」(下町)と、あちこち住み散らかして感じるのは、

最初から、大きい幸せを手に入れたいのか、それとも小さい幸せを手に入れたいのかによって、生活のコンセプトややること、お金の使い方、日常出入りする場所も変わるってことです。

サイズを決めておくと、日常やること、やらんことがはっきりしてきます。そして、サイズはもうあらかじめ決まってるともいえます。

っていうか、大きな幸せを手に入れてそうな地域では、小さな幸せの存在はなかったことになり、小さな幸せを手に入れてそうな地域では、大きな幸せの存在はなかったことになるっていうのが現象の1つな気がし、「幸せにも見えるものと見えなくなるものがあるのか」と不思議な感じがしました。

高級住宅街に住みながら、セリアでの買い物が楽しいってなんかチグハグです。実際、住んだことはないので完全想像ですが、正直、芦屋に住みながらセリアで買い物するのは楽しいのか?と考えると、あんまり楽しくない気がします。

いつもはシャトレーゼのおやつだけど、今日は駄菓子、みたいな感覚でしょうか。美味しいの?それ?とはまた違った楽しみが生まれてるのみって感じ。

そして、ここからがようやく本題です。

これまでの時代ならきっと、「大きい幸せを手に入れるため頑張る!」とか「小さな幸せでも満ちてる!」とかの話になってた気がするのですが、それもなんか違うなぁと最近は考えます。

大きな幸せは身の丈にあってないから、小さな幸せで満足して暮らそうね!って感じのところに納得できる感じじゃないなぁというのを強く感じます。

少ないもので暮らしていても幸せ〜っていうのは、なんかもうちょっと古いってのは、なんかわかられるかと思いますが、いかがでしょうか。

結局、大きいも小さいも形ある物の話に過ぎず、「形ないところに幸せを感じる」ところがこれからの話でしょう。しかし、可視化するのが超絶難しいのです。話しづらい。

というので、大きいとか、小さいとかじゃないねん、というのをこの数年間は探ってきたところでした。

これまでなんの煽りなのか、大きい幸せと小さい幸せは対比させて考えられてきましたが、対比させるのも既に終了しておるのは、こちらの読者の方ならば承知のことでしょう。

じゃあ、小さいも大きいもハイ終わり!で、ではどこが軸になってくるのかなぁと思った時に、その人のパーソナリティに合った環境を選べてるのが、これからの幸せになるかなぁと考えたのです。

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