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ハレとケ、その落差に気づきがある

日常生活の「ちょっと良いもの」をどんな人も簡単に手に入れられる世の中です。

ですが、ちょっと良いものが増えることによって、日常の平均値はどんどん上昇していきます。

そう、ちょっと良いものがどんどん普通になっていく現象です。

昔はお祝いの席を“ハレ”、普段の生活を“ケ”と呼んで、区別をつけたようですが、今はあまりそういうものがありません。むしろ「ハレ」を日常に持ち込むことによって、「日常のアップデート」が喜ばれるような時代になってる気がします。

でも。いつもハレなら、ケの存在がなくなり、自分の「ケ」とは一体何だったのか忘れてしまう場合も結構あるんじゃないかと思いました。

ハレがあるからケがあり、ケがあるからハレがある。

普段から贅沢をしていたら、ハレがハレでなくなってしまうように、さらなるハレを求めた「ハレの流浪の民」になってしまいます。それはきっと上昇を求める苦しい生活になってしまうでしょう。

ハングリーなそういうライフも良いかもしれませんが、ケの日常をコツコツと送り、たまに「ハレ」な方が安定したハッピーさが存在する気がします。

普段、ケな生活を送っていると、ハレの華やかさや楽しさを思う存分享受できますが、ハレを微妙に生活に侵入させすぎてしまうと、そのありがたみも残念なことに激減です。

ありがたさ
豊かさ
楽しさ

などの「嬉しいな」という気づきは、ケという日常がベースにあってのこと。ハレとケをしっかり分け、名前を付けた昔の人は、とっても賢いなと思うのです。

記念日は外食でおしゃれして出かけたり、給料日だからとすき焼きにしたり、日常生活はフラットな日々が続くからこそ、そういうハレが尊ばれる感じ。

と同時に、華やかだけど緊張するハレの場から解放された「やっぱりいつものご飯が美味しい」というそういう感じ。いわば日常生活への気づきです。

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