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テンプレ外の生活

医者は生活の安定を約束していた。しかし、僕は画が描きたかったのだ。
ーー手塚治虫

普段の買い物から、人の生き方まで、ある程度「テンプレート」というものが存在します。

特に明るみに出されてるわけではないですが、だいたいが「こんな感じの人なら、こういうものが欲しいだろうな」と想定されて商品が作られて販売され、だいたいが「こんな感じの人なら、こういう情報やサービスが必要だろうな」と想定されて情報・サービスが出てきます。

こういう時、いつも思うのですが、卵が先か、鳥が先かとした時、どっちが先なのでしょうか。

情報や商品が先か
個人の考えが先か

だいたいのテンプレが決まってるのが、私たちの今の暮らしです。製品になると、規格って呼ばれたりもします。

規格製品を買うから、自分が規格内に収まるようになってるのか、それとも、自分がもともと大多数である規格内的な、ごく一般的な人間だから規格製品が欲しくなるのか・・・というのは、結構面白そうな話だなと思って、時間がある時に考えるには格好の材料となってます。

これ系の話はかなりあって、お菓子があるから食べるのか、それとも食べるからお菓子があるのかというのも、めちゃくちゃ微妙です。

化粧品があるから化粧するのか、化粧するから化粧品があるのかなども超絶微妙なところです。

もし、化粧品が売ってなかったら、私たちは化粧してるのでしょうか。自分の手で作り出したり、代用品を探し出して、化粧するようになるのでしょうか。

日用品ならまだ目に見えてわかりやすいですが、生活や、いわゆる”生き方”にもテンプレが存在していることが、私たちの「漠然とした非・満足感」に拍車をかけています。

昭和ならまだその「テンプレ内」に収まっておけばOK!という感じがものすごくあったのでしょうが、多様すぎる今においては、むしろ「テンプレ」という規格がありがたい存在な気がしています。

生き方のロールモデルがなくなってしまった今、自らの手で全てをカスタマイズせねばならず、カスタマイズするスキルがなければ、迷いや悩み、不完全燃焼感があるのは当然だよなと思うのです。

なら、いっそのこと美しくテンプレを目指していくか、荒野にたち、自らの手でゼロからテンプレ外の生活を作るよう覚悟を決め込んで取り組むか、そんな最初の入り口で選んで過ごした方が、生活は豊かになれる気がします。

覚悟を決めるってことですね。

どんなことでもそうですが、世のテンプレからはみ出さなければ、それほど生活の不安や不満というのは生まれにくいようになっており、わざわざ外に出なくてもいい・・・というのも一説あり、

でも人は満ちたり不自由がないと、どうも外を選びたくなるような心理もあるようです。

守られてれば守られてるほど、アウトローやドロップアウトした人に憧れるのはその象徴。

よく、医者の家系の末っ子だけが、自由な人生を送っていたりしますが、そういう感じになるのかもしれません。

なにも知らない外野からすると、「そこまでお膳立てされてたなら、美しく決められてる人生の方が良いのでは」と思っちゃいますが、当人には当人の事情があるのでしょう。

ありますね、そういうこと。

そこまでじゃないにしろ、私たちの暮らしにも「誰かが敷いてくれたレール」というのがあって、今不自由なく暮らせるのも全てそのレールのおかげなものの、なぜか感謝しつつも、心満たされずなところあるなぁと思います。

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