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捨てるという儀式

少ない物で暮らすというと、「今暮らしている状況から物を引く」というイメージが強いですね。

でもそうではなく、移動がベースの生活だと「持ち歩きが大変なので減らす」というパターンもあります。

私は後者で「持ち歩き(引っ越し)が大変なので減らす」で、そのさきに自分の暮らしが存在します。なので「今暮らしている状況から物を引いて」生活を成り立たせようとする人とは事情が違い、視点も違うことが多いです。

noteでこちらの記事を読みました。

装備品を広げて並べ、それを数日間じっくり眺めながら削れるところを探していく。「削れるところ」と言うのは、例えば歯ブラシであれば柄の部分は通常15センチくらいの長さがあるが、せいぜい5センチもあれば歯を磨くのに支障はない。10センチは切り落とす。これで3グラムくらいは軽くなるだろう。トイレットペーパーも、芯を抜いておく。などなど、この作業にかなり時間をかけていく。

すごいですね。

ソリを軽量化するために、削れるところを全て削いでいく。すごいです。

ぜひ読んでみてください。

冒険家の荻田さんのように活動のエネルギーを削ぐ・削がないの極限的な状況なら、持ち物の必要・不要の見極めもかなり精度が高そうで、見分け方もどんどん研ぎ澄まされていくんだろうと予想します。

私たちの生活なら、別に見極めが多少しくっていてもどうにでもリカバリがききますが、極限的な状況であれば、捨てていく意味、というか捨てる必然性というものも桁違いです。

「ソリを軽くする」というのは、もしかしたら「心を軽くする」ということに繋がっているのかもしれない。

文章が進むごとに、人が物を持つことの意味を追求されていくのですが、人は物を持たなければ暮らせず、物を手放すことがせめて自由に近づくことなのだ、でも到達出来ないけれど、と締めくくられています。

永遠に近付いていくだけで、生きている限りはそこに触れることはできない。

心が軽くなっても、それは心が少し軽くなっただけで、現実は何も変化していないということに、絶望というか、「なら仕方ないか」と諦念のような気持ちが浮かびます。

物を手放していくことで得られるのは「自由になった感じ」であり、決して自由を得たわけではないというのは、「手放したい!」と思いがちな私たちが心に刻んでおかなければならないことだと思いました。

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