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ミニマリストが語る、何もないということ

持たない生活を送っていると「ないとは」ということについて、直に触れている感覚があります。

持つことが普通だと感じているなら、この「持たない生活」というのも異空間だと感じられることでしょう。

「ない」というのはつまり「ある」こと。

最近読んだ本にそんなことが書いてありました。「ない」のに「ある」とは一体どういうことなんだろう、ということについて今日は書いてみたいと思います。

最近暑いので、細かい本は読みたくなく、ライトめながら面白い本です。

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ないから“ある”

ないことはあることだとこの本には書いてあります。哲学界ではよく聞くようなことかもしれません。

「ない」について、世間ではマイナスに捉えられることが多い気がします。持っていない、できない、知らない、などなど。

でも哲学界ではそれらの“ない”は、ないがゆえに“可能性がある”という風に理解するようなのです。

すごいですね。

自分には何もないと嘆く人がいます。でも本当にそうでしょうか?(略)ただ、それは二重の意味で間違っているような気がするのです。一つは、無くなったのは一部のものにすぎないという点において、そしてもう一つは、無いとは無限に有るということの裏返しだという点において。

何が無いのかと考えれば、確かに無いと捉えているのは「自分があってほしい」と願うごく一部だけの話かもしれません。自分があってほしいものを持っていると「有る」と感じているだけで、全体像を見れば、何も持っていないかもしれない。

そう視点を変えてみると、「ある」も「ない」も、どちらが可能性を秘めているかと考えれば、圧倒的に「無い」方が無限に広がり見せはじめる…というのはとても面白いことです。

何も無いのではなく、そこには無限に何かが有るのです。

例えば日本庭園、特に枯山水などの庭には何もありません。岩と小石があるだけです。でも無限の何かが存在する。つまりそういうことだ、という風に説かれています。

私たち日本人にとっての“無”とは、見えない「有る」を含めての「無い」なのだということに気づきます。

持っているということは失っていること

持たない生活を送っていると、持たないからこそ何か可能性を秘めているということを体感することが多いです。

自分の時間の使い方やお金の使い方、あとは趣味や考え方、生活の方向性などなど、物やその他のことに縛られない分、そこには無限の余地があるのです。

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