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今年わたしが「1つ1つ集めてきたもの」を振り返りました、の話

こんにちは、かぜのたみです。
今日は今年を振り返るタイミングということで、私が自分でもあまり気づかないうちに集めていたこと、をまとめてみたいと思います。

知らない間に集めてることってあります。
けれど、それが自分の方向を指し示してることってかなりあり、俯瞰で見ることを持ってみると啓示のようで面白いです。


今年はリアルのイベントを自分単体で2回、タッグを組んでは3回、開催しました。

オンラインで完結させようと思えばいくらでもできる今ですが、オフラインの場を取り戻していきたいと思ったので、自分もよく、そうした会を開催したのかもしれません。

皆様もご存知の通り、今は情報としてはいくらでも手に入り、いつでも触れられます。

オフラインで場を設けてみて思ったのは、「目の前にある人やものが発する風の流れ」みたいなのは、やっぱりすごいものがあるんだなぁ、ということです。

空気や音、波長やバイブス、わからないです。目に見えない、これらの”感じる”ということのあれこれ。

パソコンやスマホを通せば、いくらでも情報に触れられる今ですが、その場に流れる独特のエネルギーの流れ、みたいなのは存在せず、そういうのが今私も、そして皆様も必要なのかなと思ったりもしました。

これらのイベントもそうですし、「直に触れる」といえば、今年もいくつかの美術展を鑑賞してきたのもその一つだったかもしれません。

自分が自然と集めてることの傾向が見えてきた感じを、まとめて振り返ってみるとわかってきたのです。

たとえばこんなこと。

森美術館で開催されていた『地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング展』の会場内の壁に書かれていた詩です。

空中に 流れる 気流の力は
人間にも 絵画にも 広がる

美術館というのも、作品がなければただの何もない空間で、それぞれの作品があることで、その存在感自体が鑑賞者に及ぼす影響というのがあります。

例えるなら、一つの川が流れていて、流れの真ん中に岩があり、水の流れが変わる。そんな感じでしょうか。

集めたものの1つに、こちらもあります。

これは東京オペラシティ・ICCのオープンスペースに設置された『無響室』の作品解説です。

わたしたちは通常,周囲の空間の広さなどを音の反射によって把握しています.しかし,この音の反響や反射がなく,外部の音からも遮断された特殊な空間では,自分の位置を空間の中に定めることができない状態になるため,音響的には空間の中に宙吊りになっているのと同じことになります.無響室に入ると圧迫感や不安感などが体験されるのはそのためです.また,その空間の性質を利用して,音を媒介とした聴取者と環境との関係を人工的に作り出す実験が行なわれています.

https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/works/anechoic-room/

私たちお互いの存在も、こんな音のようなものなのかなぁと思いました。

誰かがいるから、自分の存在を定めることができる。

そうでしかない気がしました。

わたしたちは通常,周囲の空間の広さなどを音の反射によって把握しています.

音の解説ではあるのですが、私たちも通常、周囲の人たちからの反射によって自分を把握しています、ということを表してるようにも思えたのです。

ちなみに、上の解説文には後半があり若干余談気味になりますが、ご紹介します。

アメリカの音楽家ジョン・ケージ(1912-1992)は,かつて無響室に入り完全な沈黙を体験しようとしましたが,音から遮断されたはずの耳に聴こえてきたのは,「血液の流れる音」と「神経系統の音」という二種類の身体内からのノイズでした.それにより,ケージは「沈黙は存在しない」という認識に至り,そこから20世紀の音楽史を塗り替える作品が生み出されたのです.

https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/works/anechoic-room/

私は決して、上に紹介されているジョン・ケージを代表とする前衛的なミュージックに詳しい訳ではないですが、『4分33秒』という作品があることだけは知っています。

何も音が収録されていな(!)この音楽作品なのですが、私はこれまで”虚無の表現”かと思ってたのです。が、全くの逆だったことに衝撃を受けました。

沈黙は存在しない

それをケージは表現していたのかーーー!と、作品の奥ゆかしさをあらためて実感したのでした。

人と人が集うと、そこに完全な沈黙ってないよねぇ、むしろ雄弁だよねぇ、とオフラインのイベントを開催してみると、心底思うのです。

続きまして、集めたものの断片としてこちらも。

上の無響室と同じく、東京オペラシティ・ICCのオープンスペースに設置された『syncrowd シンクラウド』というインスタレーションの作品解説です。

個としては単純な振り子の振るまいが、うねりを持った状態や、無秩序な状態を生成しながら、環境を自己組織的に複雑に変化させ続けるプロセスを体験することができます。


書くとなんだか野暮な感じになりますが、これはもう、人が集まった時に起こる動きそのもの、です。

人が集う場にいるとよくわかりますが、個人一人ではあるんだけども、自己組織的に環境を用いるように自然となるよね、と感じます。誰かから受ける影響、というのがやはり起こるからです。

人と話す、ということを必要としている時、私にもこうした「自分の変化を求めている時、相手へも変化を起こすようなことを自らもしている」と思う時があります。

同期するってこと、リアルの場を経ると、より実感を持つことが本当にたくさんありますもんね。

そして最後に。私が今年集めたものの中で、いちばん気に入っているのはこちらです。

国立新美術館で開催されていた『李 禹煥(Lee Ufan)展』の会場内の壁に添えられていた言葉です。

出会いの響きがフェードアウトしていくとき、外からの音は自分の内面へ戻るのかもしれないなと思いました。

そして李 禹煥の公式サイトには、こんな言葉もあり、です。

今年、開催したイベントにお越し下さった皆様に贈りたいというか、共有したいと思います。

自己は有限でも
外部との関係で無限があらわれる。
表現は無限の次元の開示である。

李禹煥

一人は有限でも、誰かと話すことで無限があらわれて、響きが終わりに近づく時、自身が開示したものは、皆の共有のものとして変化していき、いつしか一人一人の内面へ帰って行くのかもしれません。

自分が表現したことは、自分にそのまま返ってくる。

私が自分でも、あと参加された皆様のご様子を伺っていても感じたことです。


上記の作品解説群や作品自体ももちろん興味深かったのですが、そこから受けた影響の流れを思い起こし、人が無意識で起こすウェーブって、本当に面白いなと思った1年でした。

以上が、私が今年集めたもの、でした!
来年はどんなことが響き渡るでしょうか。楽しみですね。

それでは、本日もあんじょう!


【今年を振り返りました】

イベントでタッグを組んだ、なにおれさんと今年とイベントを振り返りつつ、いろいろ話しました。


【ご参加のご感想、ありがとうございます🙏】