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藤のいろと、母

孫の顔が見たかったし、私も見せたかった

花が好きな母の、中でも好きな花の色だ。その母が昔、私にすすめた人がいた。友人の親戚の…という、よくあるパターンのお見合いである。

その人は背の高い、猫背で似合わないメガネをかけている人だった。何度か迎えにきて出かけたが、そのうち“このまま、こうやって会っていても、どうにかなるものでもないな”と思って、会うことをやめた。でも、この時期になると思い出す。

お腹が弱い人だった。だから食後に時間が必要だった。それはつまり、食べたものがあたってお腹が悲鳴をあげないか、決断する時間だ。食事が終わって少しすると「行ってくるね」と言って用を足しに行く。私はうなずきながら携帯を取り出していた。

触れることにも弱かった。極度のくすぐったがりで、ベッドに寝転がってマンガを読んでいたその人の背中に手を伸ばしたときも「ほんとにやめて」だった。そんな感じなので“その先”のときに「万歳してて」と言われても驚かなかった。

ある意味、親孝行は続いてる

“好きな人がたまたまそういう人”であればよかったけれど、そもそもお見合いはそういうもの。だから、この人とならと思えるものがあれば話は進んだのだと思う。でも私はいま、別の人と結婚をし、息子と3人で暮らしている。みんなで楽しく食事をし、川の字で眠り、くすぐり、くすぐられて目を覚ます。

一昨日、藤の花が刈り取られた、というニュースを見て、他に手はなかったのかと思いながら、母を想った。実家の近所にも立派な藤棚がある。きっと、楽しみにしているだろう。私はメールをした。たまたま「昭和の日」は両親の記念日でもあった。

返信のかわりなのか、すぐに電話がかかってきた。元気そうで「マスクなど縫ってます」と送ったメールが届いているかと確認をしていた。それもひと月も前のメール。その暮らしぶりがうらやましいほど、のんきだ。でも「藤が切られちゃってね…」とニュースの話をさみしそうにしていた。

「愛でることが生きがいなのにねえ」。種を蒔き、花を愛で、畑からは食をいただく。それが母の暮らしだ。父も同じで、仕事の合間に農作業をするのが楽しいらしい。泥のついたネギやジャガイモが、時期になると大量に届くことが恒例になっているほどだ。人の世話を苦とも思わず、かと言って出しゃばることはしない。

「みんな元気にしてるかい。お休みで相手するのが大変だろうね」

母は、どこまでも母で、娘の心配が絶えない。私が毎日息子の練習に付き合っていると思っているらしく、しっかり食べて、早寝してと念を押していた。離れた土地へ嫁いだ娘の子育てにも手を貸せず、心配しかできない。それでも母の声にはハリがあり、気にかける対象がいることが生きがいなんだと思った。

今年もまた、藤やスミレが咲く季節がやってきた。母は今ごろ、車を走らせて里山にカタクリを見に出かけたかもしれない。花が好きな母に、コロナだから行くな、とは言えなかった。一緒に行っていたころを懐かしく思い出しながら、私は、父と母の静かな暮らしぶりをそこに重ねた。

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