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ハンナ・アレント『カント政治哲学講義録』読書ノート(後編)

ハンナ・アレント『カント政治哲学講義録』読書ノートの後編です。今回は第十一講義から第十三講義をまとめます。全体を貫く謎は「なぜ判断が趣味に基づくのか?」で、判断と構想力や共通感覚の関係性が語られています。

分断が話題になる昨今ですが、アレント=カントから「その判断、自分の身内以外にも説明できるの?」と問われ、背筋の伸びる内容になっています。エリートが自己利益のための判断を繰り返しているのが分断の確実に大きな一因になっているわけですが、その流れへの思想的な武器としても有用かもしれません。

また、ニッチな読解の方向性ですが、教育関係者にとっては、文部科学省のいう「思考・判断・表現」の「判断」を問い直すのにもおすすめかもしれません。アレント=カントに基づけば、判断力を育むとは、他者にコミュニケーションする前提で判断できるようになることを意味します。それは内側にこもっていくのとは逆の方向性、つまり言葉を使って外に開いていく方向です。判断とは「主体性」に紐付けられることが多いですが、一番のポイントは「対話的」であることにあります。アレント=カントに依拠すれば、対話的でないのに判断力を磨く授業はありえません。最終的に目指すべきゴールは、対話によって人類という共同体の感覚を掴むことだ、と考えることができます。

あくまで自分のための読書ノートであり、ほかの解釈もありうることには注意してください。また、引用は、カント、アレントどちらのテキストからのものか明記するにとどめていますので、適宜原典をあたってください。

第十一講義:なぜ判断は趣味に基づくのか?

第十講義の後半に引き続き、「なぜ正/不正の判断は趣味に基づくのか?」をアレント=カントは探究していきます。最大の謎は「趣味については議論できない」という格言があるにも関わらず、そういった趣味の感覚に正/不正の判断が基礎付けられているのはなぜか?という点です。議論できないものなら、正しいも正しくないも判断できないのではないでしょうか。恐らく、これが普通の感覚です。「現代社会には正解はないから、各自自分の感覚に従って生きていきましょう」というテーゼは至るところで見られますが、アレント=カントは、その結論には至りません。

第十講義の復習として、人間の感覚には大きく2種類あることを思い出しましょう。「視覚・聴覚・触覚」と「味覚・嗅覚」です。嗅覚と味覚の特別な点は、以下の3点です。
①体験した感覚を思い出すことができない(再現前化できない)
②いかなる思考や反省にも媒介されていない(直接的である)
③対象の物のような客観性が不在である(主観的である)

以上のような特徴を持つ味覚・嗅覚は内的感覚す。つまり、誰が何を言おうとも快/不快は動きません。まずいものはいくら考えてもまずいですし、臭いものはどんなに思考を働かせても臭いです。そこに議論の余地はないです。アレントの言葉を借りれば「正/不正についての議論は起こりえない」ということになります。このように、趣味は一見コミュニケーション不可能であるように見えます。でもそれでは、正/不正の判断が趣味に基づくという命題が偽になってしまいます。そこがアレントにとっての謎です。

アレントはこの謎を解くために、構想力(イマジネーション)と共通感覚という2つの概念を持ち出します。

イマジネーションとは、「不在のものを現前させる能力」です。もっと簡単にいえば、目の前にないものを目の前にあるかのように扱える能力です。カントは「美しいものは、たんなる判定のうちで快を与えるものである」と書いています。アレントは、ここに知覚が出てこないことに注目します。知覚が出てこないということは、つまり目の前の絵を美しいと思っているときも眼に映っている像が美しいのではなく、音楽を聴いて美しいと感じたときも聴いている音自体が美しいのではない、ということです。アレントはこれを「美しいものは表象=再現前化において快を与える」と表現します。私たちは、知らず知らずのうちに、美しいと感じるときは思考や反省をしていると主張しているのです。

この洞察を携えて、政治の話に戻っていきます。フランス革命の例を再度考えます。物事に参加しているというのは、味覚や嗅覚が届きうる範囲にいることです。ですから、決定的な役割を果たした注視者=観客は、味覚や嗅覚の範囲外で、表象の中で物事に触れ、触発されます。それは趣味判断につながったとしても、「表象を介することで、それとの間に適当な距離を確立」しています。この距離は、あるものをその固有な価値において評価するための必要条件となる「隔たり、非関与性、没利害性」です。これがあればこそ公平=非党派性が担保されます。このことは「当事者性」の重要性が幾度も叫ばれる現代においては驚くべきことです。また、「現場」の重要性が広く行き渡っている日本では受け入れがたい結論かもしれません。

一方、共通感覚については、何かを美しいと感じるには、社会に属していないといけない、というカントの洞察に基づいていました。美しいという判断は主観的に見えますが、間主観性に支えられています。アレントは「思索するには一人にならねばなりませんが、食事を楽しむには仲間が必要」といっています。また、カントがこの洞察を引き出した思考実験が面白いので、以下に孫引きします。

美しいものが経験的に関心を引く(interest)のは、ただ社会のうちだけである。…… 荒涼とした島にひとり取り残された人間は、自分だけのために自分の小屋も自分自身を飾ることをしないであろう。……ひとはある対象についての満足を他の人々とともに感じることができなければ、その対象に満足することはない (カント)

私たちが美しいと判断するとき、その背景には共同体があります。趣味判断は、「常に他者の趣味について反省し、他者が下す可能性のある判断を考慮に入れます」(アレント)。私たちが何かを美味しいと感じるとき、ただ料理と向き合っているだけではありません。これを友人が食べたらどう感じるかを想定しつつ、美味しいと判断しているのです。もちろん、ここまでの推論では謎が十分に解けているわけではありません。

判断力と趣味の基本的な他者指向性は、この感覚自体(味覚)の元々の本性、その絶対的に特異な本性と、真っ向から対立しているように見えます。そう思うと、判断の能力がこの感覚から派生するという推論は誤りではないか、と結論したいという誘惑に駆られます。カントはこの推論が意味するところを十分承知したうえで、これが正しい推論だと確信し続けていました。(アレント)

第十二講義:イマジネーションと共通感覚はなぜ重要か?

私たちがイマジネーションを働かせるとき、対象は現前していません。しかし同時に、イマジネーションは、他使用が現前していないにも関わらず、それを内的感覚の対象とします。そのため、趣味=味覚の感覚は、私達が自分自身を感じる感覚だということもできます。第十一講義で見たとおり、イマジネーションがあるからこそ、距離を取って、あるものを反省し、判定=判断することができます。

こんな経験はないでしょうか。心の底から美味しいと感じるのは、その料理を飲み込んだあと、眼を閉じて余韻を味わっているときに真に感じているといった経験です。もしその経験があれば、その料理が口の中に現前しているときではなく、その後に、眼を閉じてそれをイマジネーションによって再現することで、美味しいと判断できるようになることを了解できるでしょう。これは料理の美味しさの判断だけではなく、正/不正の判断も一緒なのです。

私たちは目を閉じることによって、可視的な事物の公平な注視者、当該の事物によって直接触発されない注視者になります。盲目の詩人になるのです。また、外的感覚によって知覚したものを内的感覚の対象とすることによって、私たちは感覚的に与えられたものの多様性を集約し疑縮します。そうやって私たちは精神の眼にょって「見る」、つまり、特殊的ものに意味を与える全体を見ることができるようになるのです。(アレント)

趣味判断が、イマジネーション(構想力)→反省といった2つのステップで成立しているのだとすれば、反省とは何なのでしょうか。ここはアレントがカントから読み取った部分の中で最も面白いポイントの一つだと思います。まず、挙げられている例を見てましょう。

例①)多大な功績のあった夫の死に対する未亡人の悲しみ:愛する夫が死ぬことは間違いなく直接的には悲しい。しかし、それでも立派な夫が世の中に残したものを思えば、満足を与えるではないか。この悲しみと満足はどのようにして両立するのか?

例②)われわれが従事する学問についての楽しみ:確かに真理を発見できたときは楽しい。しかし、そうではなくただ学問に日々関わっているという事実そのものも私たちに楽しみを与えてくれる。それはなぜか?

以上の例を踏まえて考えると、私たちがある行為を快いものだと判断するとき、その行為から付加的な快を受け取ることができると考えることができます。アレントによれば、「後でそのプロセスについて反省する時になって初めて、つまりそれまでやっていることに忙殺されなくなって初めて、それを是認するという付加的な『快』を得ることができる」ことが大切なポイントです。ここでも、対象との距離感を取ることが必要になってきます。

また、ある行為を快と判断するかどうかは「コミュニケーション可能性」、そしてその基準となる「共通感覚」によって決まると主張します。

共通感覚の謎は、「極めて私秘的でありながら、万人が同じく持っている感覚」であるという点にあります。この矛盾を孕んだ「共通感覚」を解く鍵はどこにあるのでしょうか。アレントは、その鍵を共通感覚が「コミュニケーション(伝達)」に依拠している点に見出そうとします。ここで大切なポイントは、コミュニケーションは表現(expression)とは異なり、言葉を必要とする点です。それゆえ、共通感覚は言葉なしには成立しない、ということになります。それは感覚にも関わらず、言葉と密接に結びついています。それゆえ、この常識に反する結論が引き出されます。

普遍的規則として役立つべき判断を求める場合には、魅力と感動を捨象することほどそれ自体として自然なことはないのである。(カント)

共通感覚は、認識ではありません。認識の対象は真理であり、真理であれば強制的であり、全ての人が同じように受け入れざるを得ません。それゆえ共通感覚は意見や判定の問題になります。これが趣味判断の基準が共通感覚に求められる所以です。

趣味とは後者の意味系列に属する「共同体感覚」であり、この場合の感覚とは、「精神に対する反省の影響」を意味します。この反省は、あたかも一つの感覚であこの場合の感覚は、「精神に対する反省の影響」を意味します。この反省は、あたかも一つの感覚であるかのように、私を触発します。これはまさに趣味の感覚、排他 = 判別的で選択的な感覚です。(アレント)

第十三講義:正しい判断は如何になすべきか?

ここまでの議論をまとめましょう。快/不快の判断は、私的で他者とは共有できないように一見見えますが、共同体感覚に基づいているため、反省作用を介することで伝達可能になります。人間は何かを判断したとき、他者にも同意してほしいと欲します。他者に同意してもらうにあたっては、判断を証明することはできないため、同意を「せがむ」「乞い求める」ことしかできません(説得的活動)。そのとき、人は共同体感覚に訴えます。

それでは「正しい」判断とは何でしょうか。アレントは、正しい判断のためには「拡大された心性」が必要だといいます。つまり、私的な条件を捨象して、より多くの人にコミュニケーションできる判断が正しい判断なのです。例えば、ごく一部のコミュニティでしか通用しない判断は正しくはありません。しばしばハリウッド映画に出てくるような、人類のために/社会のために陰謀を企てようとする組織が正しくないと言えるのは、彼らの判断が彼らの共同体の中でしかコミュニケーションできないものになっているからだと言えます。同時に、社会の中で分断が起きているとすれば、それは人々が正しい判断をすることができなくなっていることに起因するかもしれません。

以上のような理論の前提となっているのは、人間の起源は社会性にあるという洞察です。これは、生物学的な話、つまり人間は弱いから連帯しないと自然で生きていけないという話とは異なります。むしろ、社交性がなければ判断の能力を発揮できない、ということを意味しています。他者がいなければ私たちは判断できないのです。逆に言えば、「自分の感情、自分の快、利害を離れた喜びなどを伝達することによって、私たちは自分の選択を語り、自分の仲間を選んでいるのです」(アレント)。

さらに考察を進めると、ここでいう「社会」や「共同体」の範囲について等ことができます。ここで出てくる概念が「人類」です。私たちは人間であることによって、人類に属しています。ですから、何かを判断するときは、人類全体にコミュニケーションできる判断を心がけるべきです。それをカントは「根源的契約」と呼んでいます。平たく言えば、何かを判断するとき、それを一国の政治家にも、街で駄菓子屋をやっているおばあちゃんにも、戦地で両親を亡くしてしまった子どもにもコミュニケーションできるような判断をすることに心がけよ、とカントは言っています。もちろんこれは理想の極地ではありますが、ここにアレントは「行為者と注視者が一体」となった点を見ています。これは現実ではなく理念ですが、こうした理念に基づいて判断し行為することが重要であるとアレントは述べます。アレントはこの理念を「人類全体の根源的契約」と呼びます。

ここで「人類」が持ち出されるのは、平和への愛ゆえではないことに注意する必要があります。実際のところ、カントは「戦争が廃絶されると人が羊のようになってしまう可能性がある」ことを心配していました。むしろ、カントにとって重要だったのは誰もが「世界共同体の一員」であるという事実です。私たちは「地球表面の共同所有権」を持っています。また、フランス革命の考察で見たように、「地球上の一つの場所で生じた法の侵害が、あらゆる場所で感じられるほどにまで発展を遂げた」のです。

判断力について残された謎はまだあります。一つは、判断力が「特殊なものを対象」とする一方で、「思考という一般化を目指すもの」でもあるという矛盾です。これは、ただ一般的な原理に特殊なものを位置づけることを意味しません。ですから、特殊的なものを判断するためには、一般的なものではない何か別の基準が必要です。これをアレントは「比較のための第三項」と呼びます。これは判断に関わる2つの特殊的なものを結びつける何かです。

先に見た「人類全体の根源的契約」は比較のための第三項の候補の一つになりえます。しかし、それ以上に面白いのが「範例的妥当性」です。範例とはあるものがどうあるべきかの一つの例です。例えば、「可能な限り最高の机だと判断できる机」は机の範例です。こうした範例は、特殊なものであり続けますが、他の仕方で定義できない一般性を顕わにするものでもあります。範例とは特殊と一般の間にあるものなのです。

最後に、「人間の尊厳」と「進歩」の矛盾に関する問いが提起されます。ある人の人生が美しいと言われるとき、その美しさはそこで完結しています。なぜなら、美しいものは手段にならず、目的それ自体だからです。私たちがあるものを美しいというとき、それが実在することそのものに快を抱いています。言い換えれば、存在してくれてありがとう!が、美しいものに対する最大の賛辞なのです。これが「人間の尊厳」の内実です。

しかし、そこに「進歩」の概念を持ち込むと、「人間の尊厳」は成立しなくなります。進歩は、物語に終わりがないことを意味します。そして物語の内部にいる限り、全体の意味を見通すことができないので、私たちは判断できなくなるのでした。つまり、進歩を信じる限り、私たちの人生は美しいといえないことになります。それも終わらない物語の終わりが訪れることはないので、いつまでたっても美しいとはいえないことになります。私たちの人生がそれ自体として、特殊なものとして見られることなく、一般の中に存在するものでしかなくなってしまうのです。

近代を代表する概念である「人間の尊厳」と「進歩」の間にある矛盾は解決されることなく、空中に投げ出されたまま講義は幕を閉じます。

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