代替不可能性が時間と共に失われていき、ついには代替可能性となることについて

私たちは代替不可能でありたいと願う。しかし、根源的には、代替可能な存在でしかないことも知っている。人生も日常生活もその狭間にある。私たちは、常に代替可能であることの痛みと、代替不可能であろうとする志向性を携えて生きている。それゆえに、「私は代替不可能である」ことを感じたときの喜びはひとしおで、「私は代替可能である」ことを知ったときは絶望に近いものがあるのかもしれない。

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