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ハンナ・アレント『カント政治哲学講義録』読書ノート(中編)

ハンナ・アレント『カント政治哲学講義録』読書ノートの中編です。批判的思考や公開性、それに不可欠な構想力(イマジネーション)といった概念が徐々に深められつつ、アレント=カントの政治哲学にとって最も重要だと思われる対比、行為者=演者と注視者=観客の対比が明確になり、注視者=観客が政治において果たす役割が展開されていきます。

今回は第七講義から第十講義をまとめます。なお、引用は、カント、アレントどちらのテキストからのものか明記するにとどめていますので、適宜原典をあたってください。

第七講義:批判的思考が機能するには何が必要か?

引き続き、アレントは批判的思考について探究を進めていきます。批判的思考がコミュニケーション可能性を前提としているなら、批判的思考は対話可能な他者の共同体なしにはありえません。アレントは、批判的思考が他者との対話を前提としていることを「公共性」と呼びます。

「何故人(Man)ではなく、人々(men)が存在しているのか?」という問いに対して、カントなら、「それは人々が互いに語り合うためである」、と答えたことでしょう
他人に自分の思想を伝達しまた他人が彼らの思想をわれわれに伝達するというようにして、いわば他人と共同して考えることがなければ、われわれはどれだけのことを、どれほどの正しさをもって考えるだろうか!(カント「思考の方法を定めるとは」)

アレントは、公共性の原点はソクラテスにあると主張します。ソクラテスは問答によって、相手が本当に言おうとしていることを明らかにしました。ソクラテス問答は、「全ての人が考えたり述べたりすることの説明を自発的に行おうとする」こと、また「行うことができる」ことを前提としています。

この点をアレントは「説明=答弁」(account)という用語で説明します。例えば、プラトンは自分と古の賢者たちを比較して、古の賢者たちは自分たちの思想を決して説明=答弁(account)しなかったけれど、自分はいかにして一つの意見に到達したか、またいかなる理由でその意見を形成したか述べることができたことを違いとしてあげた、というように。「私は真理を見た。その真理とは…」といって結論だけ提示するのは、説明ではありません。説明とは他者からの問いに答えることです。これが政治的に重要なのは、政治家とは、責任を取る=応答することのできる(responsible)者だからです。

批判的思考は他者の問いに応答するだけに留まりません。それは、自分の主張に対して自分で問いを投げかけたり、他者の問いかけを取り込み主張を鍛えることを意味しています。これをアレントは「公平=非党派性」(impartiality)と呼びます。現代でいわれる「公平」とは違います。例えば、与党と野党があったときに、どちらの味方もしないのが公平なのではありません。むしろ、なにか主張をしたときに他者かの指摘に開かれていること、それこそが公平性です。

熟考してそうした反論をつねに自分の判断の中に織り込み、そして、もとから持っていてそうした反論がないときには好んでいた考えすべてをご破産にする権利をその反論に与えさえするのです。私は、このことをとおして、自分の判断を他の人の観点から公平に(impartially)ながめて、私がそれまで持っていたものよりもよい第三の何かを発見できればと、つねに望んでいます(カント「マルクス・ヘルツ宛書簡」)

他者の意見を取り入れて意見を鍛えることを、カントは『判断力批判』では「精神の拡大」と呼んでいます。では、どうすればこの精神の拡大ができるのでしょうか。アレントは、カントの構想力=想像力(Imagination)が決定的な役割を果たすと主張します(以下、カントのImaginationは通例「構想力」と訳されますが、ピンとこないので、以下イマジネーションとカタカナで表記します)。なぜなら、イマジネーションを用いることによって、他者を現前させ、潜在的に公共的な空間で思考することができるからです。これは読者をありありと想像しながら文章を書くことで、仮想の読者からのツッコミを受けつつ、思考を練り上げられるという身近な例からも明らかです。

ただし、イマジネーションは感情移入とは異なります。感情移入は、他者の考えを受動的に受け入れることであり、「彼らの偏見を私自身の位置に固有な偏見と交換することにすぎ」ないとアレントはいいます。生まれつき誰もが心に色眼鏡をかけて生まれてくるとしましょう。もしそうだとすると、他者の視点から世界を見ても、それは違う色の世界が見えるだけです。世界そのものはそれでは見えません。世界そのものを観るためには、色眼鏡を外す必要があります。アレントの言葉でいえば、「他者を考慮にいれ」「私たちが通常私利(self-interest)と呼んでいるものを排除」する必要があります。

(一般性は)特殊なもの、つまり人が自分自身の「一般的立場」に到達するために通過しなければならない、様々の立場の特殊な条件と密接に結びついています。(アレント)

アレントは以上の考察をまとめつつ、これからの議論を先取りして、一般的な立場に到達しうるのは観察者=観客(spectator)であることを示唆します。これは今後、役者(performer)に対置され、精緻化されていきますが、ここでは準備として、今後の議論の下敷きになるカントのフランス革命論を見ておけば十分でしょう。

それ(=フランス革命)はたんに観客(Zuschauer = spectator)の考え方、こうした大転換劇にさいして思わず知らず公にあらわれ、非常に一般的ではあるけれども、非利己的な共感を劇の一方の役者に寄せて他方の役者には反感をもつということを、そんなふうに最肩すると自分にとって大きな不利になりかねないという危険を冒してまでも公言する、観客の考え方でしかないのである。この考え方はそのようにして、(一般的であるがゆえに)人類が全体として一つの性格をもつことを証明すると同時に、(非利己的であるがゆえに)一つの道徳的性格を少なくとも素質においてもつことを証明するのである。(カント)

第八講義:なぜ観客としての意見が重要か?

第八講義では、前回予告されていた、「観客」としての視点の重要性がさらに探究されます。アレントは、人類の道徳性は、観客=傍観者の意見にあるといいます。これは、いじめでもしばしば、加害者と被害者のどちらでもない傍観者がどのような態度をとったのかが着目されることを想起できれば、割と納得しやすい部分なのではないかと思います。当事者性が圧倒的に重視される現代において傾聴に値する見解ではないか、と思います。

続いて、カントがあくまで観客の立場に着目していたことを明らかにするために、アレントはカントがフランス革命の遂行者を擁護していたわけではないことを強調します。アレントはカントのテキストに「行動の基準になる原理」と「判断の基準になる原理」との衝突を見て取ります。わかりやすくいえば、革命の結果もらたらされる結果が福祉の改善に寄与するにしても、革命ははじまった時点では(そのときの法体系では)違法である、というジレンマにあるということです。これを行動と判断の対立に置き換えるのがアレントの妙味です。行動とは革命を起こすこと、判断とは起こった革命について価値を付与することです。

この権利はやはり常に一つの理念であるにすぎず、その実行は、実行の手段が道徳性に合致するという条件に制限されるのであって、国民がこの条件を踏み越えることは許されない。こうしたことが、常に不正である革命によって生じることは許されないのである。(カント)

なぜカントは、うまくいった結果には大賛成のフランス革命について、参加することはよしとしあなかったのでしょうか。それはカントが、「公共性=公開性」を政治において最も重要な価値に据えたことにあります。第三講義で悪はあくまで秘匿されていると指摘されていたこと、第六講義で批判のためには公共の場で意見は説明されなければならないと解説されていたことも思い出しましょう。

アレントは、以下のように、革命家は「新政府樹立」という自らの意図を公表できず、この原理に反してしまうから、カントは行為者には賛成しなかったと述べています。ここは少し分からないところですね。反乱一般が起こる可能性を認めつつ、新国家樹立を謳うことはできると思います。また、往々にして詭弁に終わりますが、この反乱が終わったら反乱のない平和な世界を作ろうと詭弁抜きにいうことも(可能性としては)できそうです。

新政府樹立の企てに関与している人たちも、「反乱の意図を公表(publish)する」ことはできないでしょう。何故なら、国家を樹立することこそが「その人々の意図である」わけですが、反乱が起こるという前提の下では、「いかなる国家の存続も不可能」になってしまうからです。(アレント)

いずれにせよ、カントの結論は以下のようになります。裏の意図があってはならないということですね。この結論には、言論の自由が必要条件になります。ですから、言論の自由が廃止されるときは、反逆がおきなければ、道徳性の問題に答えられない、ということも結論付けられます。

(その目的を逸しないために)公開性を必要とするすべての格率は、法と政治の両方に合致する。(カント)

では、どうしてそういった反乱がおきるのか、が次の問いになります。カントは、「進歩」という概念を持ち出します。よりよき時代が訪れるという希望が、あらゆる活動に意味を与えるというのです。加えて、進歩の概念は観客にとっても重要です。観客にとって、進歩がない歴史をみるのは非常に退屈になります。ですから、観客にとっては、進歩が起こらないと飽きてしまうからです。

こうした想定、すなわち「より良き時代が訪れるという希望」がなかったら、あらゆる活動が全面的に不可能になる、というのです。というのも、こうした希望のみが、「健全な思考の持ち主たち」に「皆の幸福に役立つことをしたい」という欲求を生み出すものだからです。(アレント)
しかし、それでも最後には幕が下ろされるのでなければならない。というのも長く続いていると、道化芝居となってしまい、役者(actor)たちならば自分が道化師であるから飽きないとしても、どれか一幕で十分な観客(spectator)は、けっして終幕にいたらない芝居は永遠に同じことのくりかえし(Einerlei)だというとふうに先が見えてしまうと、そんな芝居には飽きてしまうからである。(カント)

第九講義:観客はどうやって判断するのか?

観客はなにをもって”うまくいっている”と判断するのか。それは、自然、摂理、運命との一致にあるとアレント=カントは考えます。こうした大きな流れと目の前の事象が一致しているしているかを見て取るためには、行為者=演技者ではなく、注視者=観客である必要があるのです。

一方の側に光景(Spectacle)及び注視者=観客が、他方に行為者=演技者及びあらゆる個々の事件、そしてそれに付随する偶然的な出来事が位置する形になります。(アレント)

カントの崇高さの議論にくみすれば、行為者も「その崇高さが自然の隠されたデザインと一致しているのではないかと思えるような場面」を生み出すことができるのではないか、という反論をアレントは仮想的として議論を進めます。アレントは、カントの議論によれば、そうした崇高な行為に参加することを理性は定言的に禁じるはずだと述べます。

理性は、道徳的に立法する最高権力の座から、訴訟手続としての戦争を断固として弾劾し、これに対して平和状態を直接の義務とするのである。(カント)

しかし、カントが行為者に対しては理性が平和を義務とするよう命令すると考えていたにしても、観客にとってはそうではありません。観客は歴史や人類の歩みと関連づけて語ります。観客にとっては、平和は卑しい利己心などを支配的にするもので、歴史や人類を前進させる戦いは称賛の対象となります。

未開人にとってすら、最大の讃嘆の対象であるものはなんであろうか。それは、ものに動じず恐怖することなく、それゆえ危険を避けない……人間である。もっとも文明化した〔社会〕状態においても、軍人に対するこうした特別な尊敬は残っている。……なぜなら、危険に挫けない軍人の心の不屈さが
認識されるからである。したがって、政治家と将軍とが比較される時にも、美的判断は将軍を勝ちとする判決を下す。戦争ですら……それ自体ある崇高なものをもっている。……これに反して、長期にわたる平和は、たんなる支配根性を支配的にし、じかしそれとともに卑しい利己欲、臆病、柔弱を支
配的にし、国民の心構えを低劣にさせるのがつねである。(カント)

なぜ戦いが人類や歴史の進歩につながるのか。この問いにカントは明確に答えていませんが、アレントはいくつかの仮説を提出します。第一に、戦いによる全面的消耗の帰結として平和が実現する可能性があります。第二に、戦争に対する準備が文化を発展させるという側面があります。これは競争を続けることが進歩にとっては重要だからです。

平和時の戦争に対する不断の準備は、おそらくいっそう大きな苦難をもたらすにもかかわらず、…それでも文化に役立つあらゆる才能を最高度に発展させる、もう一つの動機なのである。(カント)

一方、あくまで遂行者=演技者としては、戦争は忌避しなければなりません。カントは明確に言っています。

それどころか、 平和を実現しようとする意図の実現がつねにむなしい願望であり続けようとも、永遠の平和の現実がありうるかのようにわれわれは行為しなければならない。……というのも、そうすることが私たちの義務だからである(カント)

なお、演技者としての立場と、観客としての立場で、戦争に対する評価が変わるとしたら、カントはどう考えていたのでしょうか。そこの点はわかりませんが、アレントは下記のように推察しています。行為者としての善は、観察者からみたときに称賛されるものと必ずしも一致していない。この矛盾の中で生き続けるしかないのです。なお、翻訳書のp.101後半から簡潔なまとめがあります。

カントが常に平和のために活動 =演技(act)しているとしても、彼は同時に、自らの(美的・反省的)判断を知り、心に留めていたのです。もしカントが注視者= 観客として得た認識をもとに活動していたとすれば、彼は自分の心の中で罪を犯していると感じたことでしょう。だだし、彼がこの「道徳的義務」のために注視者 = 観客としての自分の洞察を忘れてしまうようなことがあったら、彼は公的事柄に関わり、献身している多くの善良な人々がなりがちな、理想主義のバカになっていたことでしょう。(アレント)

アレントは、観客者にのみ事態の本質が開かれるという考え方をたどっていきます。まず、古代ギリシアで重んじられた「観想的な生活様式の優位」に一つの源流を見つけます。なぜこうした考えが登場してきたのでしょうか。

第一には、注視者=観客だけが全体を見渡すことができるからです。一方で行為者=演技者は、全体の中の一部に専心することが求められます。言い換えれば、行為者=演技者は党派的です。だから、ゲーム外に退場することが判断には必要になります。

第二に、行為者=演技者は名誉(他人の意見)を気にかけています。つまり他人から自分がどう見えているかが気になります。なぜなら、行為者=演技者は、注視者=観客の意見に依存しており、カント的な意味において自律していないからです。カント的な意味で「自律していない」とは基準を自分で定められないことを意味します。

古代ギリシア人は真理を探究するために世俗から離れて、注視者=観客になるわけですが、カントでは、物事を判断するために、注視者=観客になります。どちらも「観想的」という形容詞が「観ること」から派生していることを踏まえると共通していると分かるでしょう。この意味で、カントのいう観客は、裁判官=判断者(Judge)であるとも言えます。

ただ、古代ギリシア人と違って、カントは「進歩」の概念を持っていました。ギリシア人は個々の事物それ自体を判断していましたが、カントでは進歩という基準から個々の事象を判断します。この意味で、カントはヘーゲルに似ています。ただし、ヘーゲルではプロセスの中で自己を現すのは絶対精神でしたが、カントでは人類が世界史の主体でした。また、ヘーゲルの歴史には終わりがありますが、カントの歴史には終わりはありません。カントにとっては進歩は永続するものだからです。

カントにあっては、物語あるいは出来事の重要性は、厳密にはその終局にあるのではなく、それが果来のために新しい地平を開くということにあります。(アレント)
このように、カントの道徳哲学の中心には個人が位置するのに対し、彼の歴史哲学[...]の中心には、人類(human race, or mankind)の永続的進歩が位置します --- そこから、「一般的視点からの歴史」の構想が生まれてくるわけです。一般的視点ないし立場を占めるのは、「世界市民」である注視者 = 観客、あるいは「世界観察者 = 観客 world spectator」です。全体という観念を持ったうえで、個別の特殊な出来事において進歩が成されているか否か判定するのは、そうした注視者 = 観客なのです。(アレント)

第十講義:観客は行為者よりも本質的か?

なぜ人類は進歩を続けるのでしょうか。この問いに対し、カントは終局点(究極の使命)のようなものはないにしても、進歩は自由と平和を目標にはしていると答えています。自由とは、何人も何人を支配しないという意味であり、平和は国家間のものです。

アレントは、注視者=観客は単数形であると考えられてきましたことを指摘しています。観客はただ1人でも光景を視野に入れることができますし、観想は孤独な営みでもありうるからです。一方、活動は他者とのコミュニケーションが必要です。何かを企て、実行するには他者の助けが必要です。アレントはここに、政治的(活動的)生活と、哲学的(観想的)生活、という古代ギリシア2つの生活様式の違いを見ます。

公開性は、実際には、読者としての公衆が担っており、統治に参加する公衆ではない、といいます。現代風にいえば、議論する公衆であり、投票する公衆ではない、ということになります。なぜならば、統治と党派性は不可分で、党派性がないことが公開性の必要条件だったからですね。

観想と実践の違いを、理論と実践の関係からも捉えてみましょう。カントによれば、実践では、判断力ではなく、意志が決定的な役割を果たします。そして、意志は理性の格率にだけしたがいます。カントにおいて、実践的とは道徳的であることを意味します。実践は理論と対立しているのではありません。思弁(speculation)と対立しています。思弁は、個人の究極の目的地に関わるものです。

行為者=演者に対して、注視者=観客は二次的なものなのではないか。アレントは再びこの問いを取り上げ、美的判断力の批判を手がかりに再度検討します。アレントはいいます。「正気の人間であれば、観客に注目されているという確信がないのに、見せ場を演じたりをしない」、と。それと同じ意味で、カントは美的判断には「趣味」が必要で、算出には「天才」が必要であるが、趣味と天才のどちらが不可欠なのかを問うています。カントの答えは趣味でした。趣味が天才を訓練するからです。さらにいえば、天才の仕事とは、私たちが心のなかに抱いているが表現できないものを、一般的にコミュニケーションできるようにすることにあるからです。

趣味は、判断力一般と同様に、天才の訓練(ないし訓育)であり、天才からその翼を切り縮めて指針を与え………、〔天才の思想に〕明断さと秩序をもたらすことによって、諸理念を確固としたものにするのであり、永続的で同時に一般的賛同を得られるものにし、また他のひとびとによる継承と絶えず進む文化とに耐えうるものにする。それゆえ、ある産物についてこれら二種の特性が衝突して、あるものが犠牲にされるべきだとすれば、犠牲はむしろ天才の側で起こらなければならないであろう。(カント)

つまり、鑑賞者=観客が公共空間をひらくのであり、制作者=行為者に鑑賞者=観客は内在しています。もし、天才に趣味がなければ、公衆から乖離し認知されなくなってしまいます。カント=アレントによれば、芸術家の本当の天才性は、芸術家でない人たちに作品を理解してもらえることにある、と考えられます。公共空間をひらく鑑賞者=観客は、つねに仲間の観客たちと関わりあっています。第十講義の冒頭で、アレントは、注視者=観客は単数形であると考えられてきましたことを指摘していたことを思い出しましょう。その命題はここで否定されます。

共通感覚と私的感覚という別の二項対立からも、アレントは説明しようとします。カントは、狂気とは共通感覚の喪失と語ります。共通感覚を失った人間は、論理的能力(前提から帰結を引き出すこと)のみで物事を判断しようとします。ですから、一般に妥当だと認められない前提から、論理的に結論を引き出すことになるでしょう。そうすると、狂気の帰結に至ります。陰謀論を唱え続ける状態はまさにこれに妥当します。

共通感覚を失った論理的能力は、他者が現前する場合にのみ妥当する、または妥当性を与えられる経験から分離された状態にある(アレント)

この後、アレントの問いの焦点は、「なぜ判断(正/不正を決めること)は趣味の感覚に基づいているのか?」に移っていきます。現在でもなお、ある物事が正しいか正しくないかは論理的に(あるいはもう少し拡張して理性的に)決まると考える人が多いと思います。しかし、カントだけではなく、グラシアン(17世紀スペインの哲学者)以来、ずっと判断は趣味に依拠していると考えられてきました。その謎を探究するのがこれからのテーマです。

まず趣味の基礎となる五感についてアレントは考察します。アレント=カントは五感を2つのグループに分けます。第一グループ「視覚・聴覚・触覚」で、第二グループは「嗅覚と味覚」です。これらのグループを分けて考えるべき理由は3つあります。

理由①:第一グループの対象は、言葉によって他者と共有可能なので「客観的」と呼ばれます。一方で、第二グループの対象は他者に伝達できないので「主観的」であると言われます。よい食レポは非常に難しいですが、たいていは味覚や嗅覚そのものを描写せずに済ませています。

理由②:第一グループは構想力(イマジネーション)によって思い出すことができます。例えば、行った場所、聞いた曲、触ったものは思い出せます。一方で、第二グループはそれが不可能です。あのときの匂い、あのときの味は思い出そうとしても、うまく思い出せません。実際にもう一回匂ったり、もう一度味わったりして、「あのときと同じだ」と判断することはできますが、そういった「現前」なしに再生できない感覚なのです。このことを排他=判別的と読んでいます。

理由③:第一のグループは、判断を意識的に保留することができます。眼で見て美しいと思ったがそうなのか、聴いた曲は綺麗だったが本当にそうか、触り心地はよかったが再考の余地はないか、等と考えることができます。一方で、味や匂いについては、快/不快の判断は直接的なので、自分で自制できません。まずいものはいくら考えてもまずいですし、臭いものはどんなに思考を働かせても臭いです。

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