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タレントの政治的発信に関する村本氏記事から連想した事

国会で賛成多数で議決、
って聴く度にムズムズする違和感を感じていた。
一度、話したら驚かれたことがある。
「小学校で
 "少数意見は切り捨てず聴かなけらばいけない”
 と言うのをよく聴いたことがある」
 
当時の「話し合い」の内容は覚えてないが、
いつからこういう事が言われなくなったのか、
或いは忘れ去られてしまった言葉なのか?
 
多様性とは十人十色と言われる昔からある現象?と言える。
「授業中にトイレには行かん様に休憩時間に行っとけ」
と言われて、苦しむ体質の子が居た可能性はある。
生理上のことは言えずにガンバってた子が居たと思う。
 
ところで 
国会の場では伝統的に一般個人的状況を審議するという事は無かったのかも。
しかし、
現代の生きるすべも無くすような異常な政治状況の中、
既存政策の方向性自体の間違いが露わになって来ている
と言えるんではないか。
個人的な問題は「多様」な条件設定に諮られるが、
実のところその個人の事情は
既に設定された条件に振り分けられるだけ。 
最低保障、伴侶を亡くした時の手当等など、
細かい条件で支援策が講じられてきた事になってるが、
「最低」基準は精神的負担よりも
経済的負担で妥当性が諮られたはず。
我慢出来るであろう範囲で決められ、
その忍耐に依り都合良いように判断基準が
ジワジワと狭められていった、
それが日本の現状ではないか?
 
ここまでなら補償する
と言われその水準を維持しつつ、
何らかの支援を求めた時点で我慢は始まっていた。
どれぐらい我慢出来るかを無意識に闘わされてきたために
自身のある時々の対処、気持ちの持ち様、
それら次第で好転したかも知れない、
と世間的我慢の限度に忖度して自ら責任を負い、
結局我慢を重ねながら益々窮地に至らせられる、、
 
そもそも
最低文化的生活保障であるべき
最低保障制度というモノが、
その最低条件を救済することで起こる、
その条件手前の者との不平等
を生むジレンマを孕むという矛盾。
理想が理想として葬られるのは、
政治姿勢が精神生活の理想に向かっていないから。
制度としての生活保障が、
住所が無くなる時点で一挙に断ち切られるという、
ホームレス切り捨て社会が
理想を掲げる気概もあるはずもなし★
 
 
画像は田中絹代
「風の中の牝鷄」より
1948年
 監督:小津安二郎
 出演:佐野周二 田中絹代 村田知栄子 笠智衆



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