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花壇は昨夜あらされました

 まだ、彼女がおさないといえるくらいのこどもだったころ。公園にならぶちいさな花壇のひとつで、花の死骸はおりかさなって、くうきのぬけたふうせんのようになっていた。むきだしになった根の上を、あみだをぬうみたいに、一匹の蟻がはっていた。
 彼女は花にくわしくはなかったので、それがなんという名前の花なのかわからなかった。もとはきっと、あざやかな赤色や黄色をしていた花弁は、土にまみれていたし、それでなくても、もっとにごった色をしていた。
 いくつか花壇のあるなかで、その花壇にさいた花だけがそうなっていた。おなじ形をしていたり、おなじ色をしていたり、おそらくおなじ名前をつけられたであろう花は、ほかにもたくさんあったのに。彼女はそれをふしぎにおもった。だれが、なんのためにこんなことをしたのかより、だれが、なぜ、ここにさいた花だけがゆるせなかったのか、そのことのほうが気になった。
 あたりをみまわすと、だれの気配もなかった。もしかしたら、これをしただれかがまだちかくにいるかもしれないと思ったけれど、いたのは一匹の犬だけだった。近所の家でかわれている犬で、濃い赤色の首輪をつけていた。その犬はよく逃げだすので、このあたりでは有名だった。
「あなたが、これをしたのかしら」
 たずねると、犬はひとつ鳴いた。肯定しているのか否定しているのか、彼女にはわからなかった。わからなかったから、きっとそれは、肯定に違いないと思うことにした。
「どうして、こんなことをしたのかしら」
 犬はもうひとつ鳴いた。なんと言っているのか、彼女にはわからなかった。わからなかったから、きっとそれは彼女には想像もできない、とてつもなくふかい理由をのべたに違いないと思うことにした。
 それは、どんな理由だろう。たとえば、ここにさいていた花の色が、ほかの花壇の花とすこしだけちがっていて、その色でもって、この犬のことをひどくばかにしていたのかもしれないけれど、そんなかんたんに説明できるような理由では、きっとないのだ。彼女には、想像もできないのだから。
 彼女がもうひとつ、なにかをたずねようとするよりもさきに、犬はもうひとつ鳴いた。それがふいのことだったので、彼女はおどろいて、なにをたずねようとしていたのか、すっかり忘れてしまった。どこかに落としてしまったその問いをさがすみたいにうつむいた彼女にむかって、犬はもうひとつ鳴くと、はしりだしてどこかにいってしまった。
 あとには彼女と、いくつかの花壇と、そこにさいた花と、かつておなじようにそこでさいていた、花の死骸がのこされた。犬になげかけようとした問いは、結局どこにも見つからなかった。
 さりぎわの犬は、なにを彼女に言ったのだろう。彼女にはわからなかった。わからなかったから、どうすればわかるだろうとかんがえた。かんがえて、かんがえて、犬とおなじことをすればよい、とおもいついた。
 彼女はずらりとならんだ花壇を見た。そこにさく花を見た。そのどれかに、彼女にとってゆるすことのできない花があるような気がした。
 やがて彼女は、ひとつの花壇にあゆみよると、そこにさいていた花の一本を、思いきってひきぬいた。根が土をさらい、その土の上をはっていた数匹の蟻が、あわてふためいてにげまどった。その花壇にはまだ、いく本かの花がさいていた。彼女はつぎつぎに、そこにさいていた花をひきぬいていった。ひきぬいた花の、あざやかでいろつやのよかった花弁は、たちまちにくすんだ色にかわった。花のすべてをひきぬくと、あたりにちらばった花の死骸を、おりかさねるようにして花壇にもどした。あの花壇がそうなっていたみたいに。
 花の死骸はおりかさなって、空気のぬけたふうせんのようになった。むきだしになった根の上を、あみだをぬうみたいに、一匹の蟻がはいだした。
 彼女はなぜそんなことをしようと思ったのか、その目的を、すっかり忘れてしまっていた。いくつかの花壇があるなかで、たくさんの花がさいているなかで、なぜその花壇の、その花にしたのか、その理由も結局、わからないままだった。
 それでも彼女は、とても充実した心地で、土によごれた手のまま、家にかえることにした。とおくであの犬が鳴いた。なんと言っているのか、彼女にはわからなかった。
 わからなかったけれど、帰途につく彼女にとっては、もうどうでもよいことだった。

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