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線を引く

人は線を引くいきものだ。

いろいろなものに、いろいろなものとものとのあいだに、線を引きたがる。むすんだり、つなげたり、あるいは切り離したり、分断したりする。

星と星とを線でむすんで、不思議な物語をそこにつむいだかと思えば、なにもない土の上を見えない線で分断して、こちらがわとむこうがわという区別をつける。

あらゆるもののあいだに、むすばれたりつながれたり、切り離されたり分断されたり、目に見えるそれ以上に、たくさんの線が存在して、それらはほとんどが、人の手によって引かれたものだ。

そうやって、意識的に引かれた線もあれば、意識しないうちに、いつのまにか、人がうまれたその瞬間に、引かれる線もある。それは本能とか習性とか、そんななまやさしいものではなくて、もっと存在の根っこのほうに、切実に存在する。

表現という活動は、意識してにせよ、無意識のうちにせよ、そうやって引かれた見えない線を見えるようにしたり、あるいは見えている線を見えなくすることによって成り立つ。

間違えてはいけないのは、それは線を引くことではないということ。線はすでに引かれていて、それを見つけるだけなのだということ。

表現者があらためて引くまでもなく、あらゆるところに、あらゆるかたちで、線は存在しているのだから。自己と他者のあいだ。主体と客体のあいだ。人と人のあいだ。人ともののあいだ。ものともののあいだ。実存と概念のあいだ。

なにかがあり、またはなにかがなく、それとはべつのなにかがあり、またはなにかがなかったとき、そしてそれを見たり聞いたりする人がいたとき、そのふたつのあいだには、実存の有無にかかわりなく、むすばれたり、区別されたりするための線がある。

その再発見をうながすこと、またときには、隠してしまうこと。

自然を考える。

自ずと然り。なすがままにそうなっていること。

幾本も空に向かってのびたビル群を考える。それは人のいとなみのなかで、なすがままにそうなったものではないのか?

送電線に区切られた空。山肌にそびえ立つ鉄塔。地をならししきつめられた家々。森を切り開きつなげられた道路。人の手によるもの。

それらは人が生きるなかで、自ずと然り、必然としてそうなったものではないのか?

アスファルトの上にそびえるビルと、赤土の上にそびえる蟻塚と、そのあいだに引かれた線を考える。ビルを建てることと、木を植えることのあいだに引かれた線を考える。

線は糸であり、境界である。あらゆるものはむすびつけられ、あらゆるものは区切られている。

ここに並んでいる文字は、私とあなたをむすびつける糸であり、また区切る境界である。それは私が引いたわけではなく、あなたが引いたわけでもなく、最初から、人が人として在る瞬間から、ここに存在するものだ。ここにはたくさんのそういった線があり、そのたくさんのなかから私がたぐりよせて、私にもあなたにも、見えるようにしただけのものだ。

それが表現である。

山や、川や、ビルや、電柱や、ポストや、犬や、猫や、道端の破れた雑誌や、雨水をたたえる空き缶や、雨上がりの夕暮れの空や、そこにうかぶちぎれた雲や、金星や、かけた月や、そういった様々なものに、あたかも最初から、それがこの世界と呼ばれるものに在った瞬間から、それぞれのあいだにむすびつけられている糸をたぐり、それぞれのあいだに横たわる境界をなぞり、私と、あなたと、あらゆるものとのあいだに引かれた線の存在を、あらためて確認し、その正当性を問うための行為である。

表現者は線を引いてはならないのと同様に、答えをだしてはならない。つねに問わなければならない。それは表現者が見つけるよりもはるか以前から、すでにそこにあったのだから。

すべては私の、あなたの、誰かしらの、頭のなかにあるものではない。ただ発見を待っていたもの。そして今も、発見を待っているもの。

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