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Don't Cry Over Spilt Milk.

『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk』と、その続編にあたる『Milk outside a bag of milk outside a bag of milk』という、すさまじいノベルゲームがついに日本語化した。翻訳は本当に大変だったろうと思う。心からありがとうと言いたい。

これはレビューではない。


このゲームをプレイする前と後で世界の見方が変わったという人がいるかもしれない。
それは本当か? 変わったことなんてなにひとつない。風にめくれるノートに恐怖を覚えるようになった? それはもともとそういう存在だったので、あなたが気づいていないだけだった。それともそれは、世界が変わったということか? あなたが見るすべてのものはあなたが変わることでその姿や性質を変えていくのか? だとするならあなたの周りに浮かんでいるそれら、牛乳、薬、ノート、ラジオ、エアコン、そういったものたち、あなたが現実と呼んでいるもの、それはもはや確かな輪郭を描けないのではないか? あなたが歪んでしまっても世界が確たるものであると考えているから、あなたが歪んでしまったことに気づけると思いこんでいる。あなたが歪んでしまったなら世界も歪んでしまうので、あなたはあなたが歪んでしまったことに気づけない。あなたの知らないところであなたの知っている世界は小さく小さく、些細なところから、この瞬間にもあなたの知らない姿へと変わっていくのに、あなたは変わっていく姿も変わってしまったあとの姿も変わらずに知っていると、知っていたままの存在だと思いこんでいる。

insideで私はとてつもない勘違いをしてしまった。私は彼女の助けになれると思っていたし実際そうすることができたと思っていたしそれはつまり彼女が孤独ではないということだ。私がいるのだから。私がいるおかげで彼女は牛乳を買うことができたのだ。本当にそうだったか? 私は彼女の頭の中に生み出された存在でつまり私は彼女だった。彼女だと思っていた。彼女は私を彼女だと思っていたか? 彼女にとって私は私でしかなかったのではないか? 彼女はずっと孤独だったのではないか? 孤独であるがゆえに私を生み出したけれど、どこまでも私は私でしかないので、彼女のことを理解なんてできるはずもない。私といて彼女はより孤独にあったのではないか?
孤独というのは他者と世界が重なり合わないことで、なにもないことではない。孤独にあるときむしろ思考や感情は吹き荒れて、密度はより高くある。彼女の思考を私は仔細に読むことができたけれどそれを理解できないものだと認識したとき彼女ははっきりとより孤独にあった。頭のなかを直接のぞきこむようなことをしてまでそれでも彼女は理解されないし理解できないし私は彼女ではない。私が彼女ではないことは最初から言明されていたではないか。彼女を手助けすることも理解することも涙をぬぐうこともできない。私はただの傍観者だ。彼女と彼女の世界、彼女の歪んでしまった世界、彼女を取り巻くもの、歪んだことにさえ気づかれていないものたち、めまぐるしく彼女を置き去りにしていくもの、置き去りにされていく彼女、なにもかもはすでに結果なのだ。私はその結果を外側からながめて気の利いたことを言った気になって彼女をなぐさめた気になっているだけの傍観者だ。彼女の見ている世界を追体験した気になってもそれは気になっているだけで彼女が感じた痛みも苦しみも悲しみも楽しみもなにもかもが過去のもので彼女だけのものだ。「これは私だ」と私は確かに思ったしだからこそ助けたいと願った。願ったけれどなにもできないことでこれは私ではないのだと知る。だって本当に私であるならば私が理解することも涙をぬぐうこともできるはずなのだ。彼女は私でないし私は彼女ではない。私は彼女を見ているだけのものだ。

彼女が見た夢のなかに私はいたか? それがすべてだったのだと思う。私から彼女にできることなんてなにもなかった。彼女を理解することもましてや涙をぬぐうことなんてできない。
祈りだけが残る。私ではない彼女がいつか牛乳を飲めますように。

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