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素肌をさらして

夏が、なにごともないまま、なにごともないことが、ほかの夏とは違う、とくべつな色になりそうなまま、終わるかもしれない、と思っていた。

地元の夏祭りだとか、すこし遠くでひらかれる花火大会だとか、そういったものがのきなみとりやめになるなかで、古い友人から、ふいに、花火をしよう、とさそわれた。

実家の物置のおくに、何年前に買ったものか、それとももらったのかもしれないけれど、すっかり忘れ去られていた、手持ち花火のセットがあった。それを伝えると、じゃああらためて買わなくてもいいか、となった。

しけっているかもしれない、と私は言ったのだけれど、そのときはそのとき、とのことだったので、それなら、まあいいか、と了承した。

近所に、ちいさな公園のような、ひらけた場所がある。外灯もまばらで、暗がりがひときわ色濃い。そこに、夜の半ばをすぎたころにあつまった。

満月からすこしたったころの空で、ところどころに雲はあったけれど、月はたかいところにあって、よく晴れていた。

虫の声が周囲のくさむらから聞こえてきていて、肌をなぜる風の、熱気のおさまった具合は、ほんのすこしだけ、秋の気配があった。上に薄手のものをはおっていても、蒸し暑さを感じずに、ちょうどいいくらいだった。

やっぱり、というか、あたりまえのことなのだけれど、私が持ってきた、いつのものかもわからない花火は、すっかりしけってしまっていて、火がついたり、つかなかったり、まちまちだった。

三本に一本くらい、火がついて、ぱちぱちとあざやかな色と光ではぜた。だれかの手にした花火に、そうやって火がついたとき、私たちは大げさな声をあげて、よろこんだり、はしゃいだり、その火のあざやかさに見入ったりした。

だいたいの種類の花火はそんな具合だったけれど、線香花火だけはすべて、なにごともないみたいに、時間の流れから忘れ去られていたみたいに、どれもにきちんと、火がついた。

じりじりと、ちりちりと、じっと動かないように、風になびかないように、ちいさく体を丸めてしゃがみこんだ私たちの手のなかで、線香花火はちいさな火花を存分にちらした。

満月からすこし欠けたくらいの、まぶしい月の明かりにくらべて、それらはとてもたよりなく、そのささやかさを見守る私たちは、しらず、じっとだまりこんでいた。

友人が最後の一本を手にとって、その火花が、まさにぱちぱちとはぜようとしたそのとき。いままでよりもふっとつよい風がふいて、ぽとりと、そんな音もかなでることなく、唐突に終わった。

ああ、と私たちは声をあげて、それを手に持っていた友人は、なんだか申し訳なさそうな顔をした。

後かたづけをしているとき、それがほとんど終わったあたりで、私がなんとなく、友人の、月明かりに落ちた影をふんだ。

本当に、なんとなくでしかなかったし、しいて理由をあげるとすれば、かげふみあそびが、もとは月明かりのもとで行われていたらしい、ということを、ふと思い出したからだった。

私のその、なんとなくがきっかけになって、夜のなかで、私たちは、お互いの影をふみあっては、幼い子どもみたいにはしゃいだ。

陽の光とは違う、月明かりの、やわらかく、ぼんやりとした輪郭が重なりあって、おぼろげにうかびあがるみたいに、それでもはっきりと地面にうかびあがる影は、なんだか私たちの、たましいそのものみたいに思えた。

それを追いかけて、足でふみしめて、笑ったり、おこったり、くやしがったりしていると、無邪気なたのしみと同時に、とくべつな、この夜にしかできない、儀式めいたことをしている感じがした。

身体的な接触はなにひとつしていないのに、私の影と、ふみしめた友人の影が、まじりあってひとつのかたまりになったとき、ちりちりと、さっきまで見ていた、線香花火の火花くらいのささやかさが、頭のおくのほうの、ふるい記憶がしまわれているところのあたりに、くすぐるみたいにしてふれていた。

それはたしかに、心地よいものだった。

ひとしきりはしゃいだあと、私たちは気づけば息を切らせていて、そのことがなんだかばからしくて、なにしてんだ、なんて言いながら笑った。

次は、きちんと火のつく花火を用意するから、と私が言った。そうして、また遊ぼう、と子どもがするみたいな、無垢な約束をした。

おなじ手ざわりの約束を、私たちはあと何回、できるだろう。

うっすらとにじんだ汗をぬぐいながら、吹きぬけた風の、ほんのすこしだけ、先ほどよりも深まった気がする秋の気配に、そんなことを思った。

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