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扉のこちら

 扉をあけると、夜のにおいがした。それがどんなにおいかと問われたら、正確にこたえることはむずかしいけれど、夕餉のなごりや、ボディソープや、たかれたアロマや、かすかなアルコールや、そういった夜の営みのなかで生まれるにおいたちに、雨の前兆に似た湿ったにおいと、煙草のにおいとがほんのすこしずつ混じった、胸の底のほうをゆっくりとなでつけられるみたいなにおいだと思った。
 またね、と私は言った。また、と彼女は言った。部屋のなかに漂っていた紅茶の香りとやわらかな温度が、夜のにおいと低い温度にとけだして、希釈されていくのを感じた。私はそれを、もったいないと思ったけれど、彼女はそんなことを、まるで気にしていないみたいだった。
 またね、ともういちど、私は言葉にしてから、手を振って、夜と彼女の部屋の境界をこえて、夜のがわに身をひたした。また、ともういちど、彼女は言って、私とおなじように手を振った、私は彼女の白い手のひらと、細い指と、そこに光る銀色の指輪を、見た。見たけれど、なにも見ていないふりをした。
 扉を閉めなければならない。彼女の部屋が、完全に、夜に侵食されるよりも前に。彼女は手を振っていた。私はもう、手を振っていないのに。
 扉が閉まりきるその瞬間まで、私は彼女を見ていた。彼女の、ほんのすこし紅色のうかんだ頬と、手と、指とを、見た。銀色の指輪に、見ないふりをした。がちゃん、と扉の閉まる音は、思っていたよりもずっと重々しかった。閉まりきるそのとき、隙間から見える彼女の顔に浮かんでいる笑顔が、ふっと消え失せるのではないかと、そんな不安にかられていたけれど、しかし彼女の顔は、笑顔のままだった。私は、すこしだけ安心した。
 扉の前にとけだした彼女の部屋の残り香は、ふと気づいたときにはすっかり霧消していて、そこはどこまでも均一な、平坦な、夜の一部にすぎなかった。逆に言えば、それはこの夜のどこにでも、この夜をなす様々なもののひとつとして、彼女の部屋の、彼女の、においや熱があるのだと、そう思うことにした。
 階段にむかって歩き出す。コンクリートは、かかとの靴底がふれるとこつこつと高い音で鳴った。その音にまじって、かちゃりと、鍵のかけられる音がした。振りむくと、ずらりと並ぶ同じ形をした扉のなか、はたしてどれが彼女の部屋のものだったか、私はすっかり、忘れてしまっていた。

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