「死、のち殺人」第9話

 まぶたの裏に鮮血の残像が映る。目の前で血を吐いた女性。お腹の子に憑依した夫に殺された女性。思い出しただけで胸が引き裂かれるような痛烈な痛みが走る。微電流を流されたように全身が痺れている。嗅いでもいない血生臭さが鼻腔の奥を刺激する。暑い。息が苦しい。鼓動に胸を殴られる。あえぐように息を吸うと過呼吸が悪化した。苦しい。まぶたを開けても闇が広がっている。全身が何かに圧迫されている。汗で湿った肌にそれが吸いついている。
 やみくもに手足を動かすと、ばさ、ばさ、と布が擦れる音が鳴った。どうやら私に纏わりついているものは掛け布団のようだ。もがきながらそれを剥ぐと視界が開け、こじんまりとした部屋が目に映った。雑然とした空間に埃が舞う。シーリングライトの人工的な光が目に突き刺さる。
「四人目……」
 Web会議の途中で新たな人物に憑依したことにようやく気付いた。サビ猫飼いはどうなってしまったのだろう。尋常じゃない胸騒ぎがするが、彼女の安否を確かめるすべはない。恐らく今回は事件として扱われないだろうから。
 それに今は、他人よりも自分の身を案じなければならない。あと十日の間に、生前の私を知っている人物に名前を呼んでもらって記憶を蘇らせ、生前の未練を晴らす必要があるからだ。サビ猫飼いのことで胸が張り裂けそうだけど、一刻も早く気持ちを切り替える必要がある。
 乱れた呼吸を整えて全身を確認すると、自分が女性に憑依したことがわかった。華奢で筋肉が少なく、全体的に骨ばっている。服装は襟のよれたTシャツに、裾のほつれたジャージ。髪を触ると、指先に脂がべっとりと付着した。脇からは汗が発酵したような酸っぱい臭いが漂っている。この人物はしばらく入浴していないのかもしれない。
 顔も確認したいが、六畳にも満たない部屋には鏡が見当たらない。洗面所に向かうために床に足を下ろすと、ばりばりと乾いた音が鳴った。驚いて視線を落とすと、ポテトチップスの袋を踏んづけてしまっている。しかも落ちている物はそれだけではない。床一面に足の踏み場もないほど大量の物が散らばっている。
 つま先立ちで慎重に歩きながら出入口に向かい、扉を開けた。アパートの狭い廊下を想像していたが、暗闇に包まれた廊下の先には下へ続く階段が見えた。どうやら一軒家の二階のようだ。同居人がいる可能性を考えただけで心拍数が一気に上昇する。
 視線を下にスライドさせると、お盆の上にラップのかかった野菜炒めとご飯が載っている。何となく状況を察し、嫌な予感に後押しされるように扉を閉めて部屋に戻った。
 不衛生な体、荒れた室内、一軒家の二階、廊下に置かれたご飯。恐らくこの体の持ち主は実家に引きこもっている。だとしたら、急に一階に下りたら家族に驚かれてしまうだろう。まずは室内で個人情報と引きこもりの理由を探るしかない。
 つま先立ち歩きを再開し、情報収集のためにスマホを探した。しかし、ベッドにも机の上にもない。仕方なくしゃがみ込み、床を這うようにして探した。芋掘りの要領で物をかき分けていく。
 時間はかかったが、なんとかスマホを発見した。画面は割れ、充電は切れている。もう一度床を掘り充電コードを探し出してつなぐと、ようやくスマホの電源がついた。さっそく個人情報の宝庫であるLINEを確認してみる。
 登録名は『ゆうの』。友達は十二人。極端に少ないので一人ずつ友達を確認していくと、ある名前で目が留まった。
 友達の中に『MO』、つまり鈴木萌桃がいる。アイコンも同じだから間違いない。驚きのあまりスマホが手から滑り落ちた。
 一体この引きこもりの女性と鈴木萌桃の間にどういうつながりがあるのだろう。鼓動がうるさいほど暴れている。
 スマホを拾い上げ、震える指で『MO』をタップしようとした瞬間、突然扉がノックされた。
「ゆうの、起きているの?」
 扉越しに中年女性の心配そうな声が聞こえた。恐らく母親だろう。先程床を捜索したときに物音が響いてしまったのだろうか。配慮が足りていなかった。
「お腹空いていない? あたたかいもの作るわよ」
 その言葉に呼応するように腹の虫が鳴る。胃が空っぽであることを自覚した途端に気持ち悪さがこみ上げてきた。空腹による吐き気を抑えるために一刻も早くお腹を満たしたい。
 しかし、すぐに母親の声に反応してもよいのだろうか。この人物が普段どれほど母親とコミュニケーションを取っているのかが定かでない今、容易く返答することは憚られる。
「……夜ごはん、もう一度温めて置いておくね。お風呂も沸かしておくから」
 母親は寂しさのにじむ声でそういうと、扉の前から去っていった。階段を下りる小気味よい足音がここまで響いてくる。生活空間が一階と二階に分かれていても、人の気配はすぐに伝わってしまうらしい。何だか少し、懐かしい感覚だ。生前の私も一軒家に住んでいたのだろうか。今は些細な記憶の欠片さえ零したくない。
 ややあって、今度は階段を上がる音が聞こえた。「ここにおいておくわね」と言う声と共に床に物が置かれた。恐らく温めてくれたご飯だろう。母親が去ったことを音で察知すると、すぐに扉を開けてお盆を中に引き入れた。ラップの内側が湯気で白くくぐもり、大小さまざまさ水滴が無数に付着している。急いでラップを取ると、湯気が顔にもくもくと押し寄せてきた。もやしの匂いが鼻腔をくすぐる。一番味がないくせに、一番食欲を助長してくる匂いだ。なんてことのない、洒落た料理名すらない雑多な野菜炒めなのに、この世のどんな料理よりもおいしそうにみえる。
 憑依してから初めての、自分以外の人間が作った手料理だからかもしれない。
 行儀など何も気にせず、むさぼるように野菜炒めを口にかき込んだ。風味を口に閉じ込めるため、艶やかな白米を口いっぱいに押し込む。一噛みしたら、幸せの味が広がった。自然と涙が流れてくる。
「おいしい……」
 もやしのぼりぼりとした触感を嚙みしめながら、自分はひどく寂しいのだと自覚した。色々な人と関わってきたはずなのに、それは他人を通した関わりでしかなく、誰も本当の私を知らない。だから私はいつも一人だった。子育てや未練晴らしの重圧に押しつぶされ、悪霊化した憑依者に殺されかけ、目の前で人が死にゆくさまを見て神経をすり減らし、それでもなお、大切な人を殺さないために戦わなければいけない。たった一人で。
「おいしい……」
 だけど今私を満たすこの料理は、他人の愛情そのものだ。その矛先が私に向けられていなくても、無償の愛が込められたご飯は心も体も満たしてくれる。それだけで、しつけ糸のように脆く切れそうな心をなんとかつなぎとめることができる気がした。あと十日間、最後の一秒まで踏ん張らなければならない。
 あっという間に食事を終えた私は、再びスマホを手に取った。トーク履歴は消されているけれど、友達は存在している。確かめるすべがあるのに躊躇っている場合ではない。
 私は『MO』にメッセージを送った。
『生きていますか?』
 すぐに既読はつかなかった。根気強く待つしかない。スマホを閉じた私は、この人物の個人情報を確かめるべく、物で溢れかえっている床に再び手を伸ばした。
 
 目覚めたのは昼の十二時だった。昨日は個人情報を探しているうちに雑然とした床が鬱陶しくなり、部屋の掃除をした。そのうち急激な睡魔に襲われ、明け方に気絶するように眠りについた。今は大量の物が壁際にはけられ、細かい傷の目立つこげ茶のフローリングがあらわになっている。布団を剥いで起き上がると、細かな埃が舞った。丈の合わないカーテンの隙間から零れる光を浴びた埃が、雪のようにゆらゆらと輝きながら降り落ちる。
 ぼんやりとした意識の中で、昨日判明した個人情報を思い出した。
 この人物の名前は柚木ゆずき優乃ゆうの。十六歳の高校一年生で、家から片道二時間半も離れている森矢台もりやだい高校に通っているらしい。しかし、制服は着用した形跡がなく、教科書も新品同様。中学時代の私物を漁ると、ノートの書き込みが中三の六月ごろから途切れていた。恐らくその時期から不登校になったのだろう。高校は名前だけ書けば入れる学校に籍だけ置いている可能性が高い。
 しかし、肝心の不登校の原因はわからなかった。LINEのトーク履歴はすべて消えているし、日記なども見当たらない。母子家庭のようだが毒親には見えず、家庭環境に問題がある可能性も薄い。
 だけど、中学時代の一部の教科書がないことや、体操着の上下の数が合わない点などは気になる。ただ処分しただけかもしれないけど、いじめによって紛失した可能性も否めない。 
 いずれにせよ、現段階では憶測することしかできない。柚木優乃の謎を解き明かすには行動に移すしかないだろう。意を決して部屋を出ると、廊下におにぎりが二つ置いてあった。心の中で母親に感謝しつつ、遠慮なくいただいた。柚木優乃の体は貧弱な割によくお腹が空くらしい。
 食後に一階に下りると母親はいなかった。仕事に出ているのかもしれない。私は昨日の食器を丁寧に洗い、素早くシャワーを浴びた。部屋に戻って新品同然の制服に袖を通すと、抽斗の奥に眠っていたわずかなお金を握りしめて家を出た。
 時刻は十三時半過ぎ。ここから二時間半かかるとすると、学校に到着するのは放課後かもしれない。そうだとしても、柚木優乃の知り合いが一人でも見つかれば色々話を聞くことができる。可能性は低くても、時間がない今は手あたり次第に行動してみるしかない。
 通学途中で柳楽直希の最寄り駅を通過したときは得も言われぬ感情を抱いた。間違いなく彼に憑依していたのに、今は何の接点もない他人。そう思うと寂寥感が胸に押し寄せた。
 森矢台高校に着いたのは放課後だった。校門からぞろぞろと生徒が出てくる一方、校庭からは運動部の威勢のいい掛け声が響いてきた。十代の瑞々しいエネルギーがそこら中から溢れている。
 不登校の柚木優乃がいきなり現れたら、知人は何かしらの反応をするに違いない。こちらに胡乱な目を向けてくる生徒がいたら声をかける覚悟はできている。
 しかし、そんな反応をする人は一人もいなかった。もしかしたら顔見知りがいないのだろうか。柚木優乃が一度もこの高校に来たことがないとすれば、下手したら教師も彼女の顔を知らないのかもしれない。
 意を決して起こした行動が無意味だったことに落胆する。貴重な数時間を無駄にしてしまった。途方に暮れて花壇の横に座ると、背後に気配を感じた。
「柚木?」
 振り向くと、懐かしい顔があった。
「吉永……」
 言ってから両手で口を覆った。大学生の彼がこんなところにいるはずがない。きっと彼に酷似している人物だ。
 しかし吉永に似た学ランの男子は「えっ?」と素っ頓狂な声を上げた後、顔をしかめて私の手首を掴んだ。強い力で引き上げられ、立ち上がざるを得なかった。
「えっと……」
「来て」
 吉永に似た男子は私をどんどん引っ張っていく。一体何が起きているのだろう。混乱していると、ほどなくして薄暗い校舎の裏庭に着いた。陽が入らないせいか、夏なのに湿っぽい。鬱蒼と生い茂っている雑草は不気味だ。青々しい匂いが不安を助長する。
 彼は唐突に立ち止まると私から手を離してこちらに顔を向けた。短髪の童顔で吉永そっくりだが、髪はワックスで遊ばせていないし、頬に豆粒ほどの大きさのほくろもない。普段は温和な雰囲気であろう目元がきゅっと吊り上がり、物々しい雰囲気を纏っている。彼から静かな、しかし甚だしい怒りをひしひしと感じる。
「やっと来たんだ?」
「え?」
「学校」
「……う、うん」
「どういうつもり?」
 ぶっきらぼうで冷たい声を受け、思わず身構える。
「どうって……」
「君は好きなタイミングでやり直せていいね」
 何のことだか見当もつかず、頭が真っ白になる。
「さりちゃんは、もう戻ってこない」
 吉永に似た男子の拳がわなわなと震えている。
「僕は許せない。許せないから、わざわざ君と同じ高校を受けた」
「え」
「この日のために」
 彼はじりじりと間合いを詰めてきた。左手はポケットに突っ込まれている。こういうときの嫌な予感は、往々にして当たる。
「さようなら」
 一瞬のことだった。吉永に似た男子が両手で果物ナイフを握りしめ、私に向かって突撃してきた。
殺される。
 私の防衛本能は尋常じゃないほど早く反応し、彼の攻撃をすんでのところでかわした。しかしバランスを崩し、雑草の生い茂る地面に打ちつけられた。草は想像の何倍も冷たく、素肌を容赦なく冷やした。じわじわと転倒の痛みが全身に広がる中、吉永に似た男子は禍々しい表情をしながら私に馬乗りになった。
 男子高校生の力は計り知れない。
 もう、終わりかもしれない。
 でも、まだ終われない。
「……捕まってもいいの?」
 指先も足先も小刻みに震えているのに、喉から出た声は極めて冷静だった。
 この発言が功を奏したのか、吉永に似た男子の動きが鈍くなり、表情が歪んだ。
「か、構わない。さ、さりちゃんのためなら」
 彼は先程の剣幕が嘘のように動揺している。両手でがっちりと握りしめている果物ナイフの刃先は、高速のメトロノームのように左右に震えている。
 いや、それだけじゃない。彼の全身が震えている。
「私を殺しても、さりちゃんは戻ってこないよ?」
 この言葉はかけだった。彼が逆上し、胸を一突きされる危険性も孕んでいた。しかし、私の読み通り彼はひるんだ。
 殺されることを恐れているのに冷静に思考が働いたのは、きっと悪霊という本物の殺意を目の当たりにしたことがあるからだろう。彼からはそれを感じない。ただ、生まれたての小鹿のように弱々しく震え続け、かろうじて虚勢を張っているだけだ。
「う、うるさい!」
「ねぇ、吉永」
 そういうと、吉永に似た男子は完全に動きを止めた。銅像のように硬直している。その隙を狙い、思い切り股間を蹴り上げた。
「うぅぅ!」
 吉永に似た男子は果物ナイフを放り投げ、両手で股間を覆いその場にくずおれた。獣のような唸り声を上げている。私はそのすきに雑草の上に落ちた果物ナイフを回収し、スマホの通話画面に『一一〇』と入力して彼に突き出した。
「今から警察に連絡する」
「うう……ああ……やめ……」
「嫌なら、私を殺さないと誓う?」
 彼は悶えながら激しく首肯した。
「じゃあ、もう一つ条件がある」
「な、な……な……に……」
「教えて」
 私は涙目の彼に言った。
「柚木優乃のこと」
 
 無言で図書室に場所を移した私たちは、本棚を隔てて向かい合った。この本棚は背板がない金属ラックのため、本と本の間からお互いの顔を確認することができる。これで簡単に私を襲うことはできないし、変な動きがあれば一目散に逃げる心づもりでいる。
「あなたの名前は?」
 まずは相手の個人情報を探ることにした。
大地だいち末永すえなが
 その言葉で確信した。彼は間違いなく吉永の弟だ。まさか信頼できる人物の弟に殺されかけるなんて思いもしなかった。
「なんで柚木優乃を知っているの?」
「なんで柚木はそんなこと訊くの?」
 逆質問をされて一瞬ひるんだが、動揺する必要もないことに気付いた。なにせ私は末永の殺人未遂をすぐにでも訴えられる立場だから。危険な相手には、剛毅なふるまいを崩さないことが大切だ。
「記憶がないの。でも、このことを誰かに言ったらあなたを警察に突き出す」
「……記憶、か」
 末永が含みのある声で言った。今の時世、勘のいいひとなら憑依だと気付くだろう。面倒なことを質問される前に言葉を続ける。
「もう一度訊く。なんで柚木優乃を知っているの?」
「……中学が同じだったんだ。西水谷にしみずたに中」
 確かその中学校は家のすぐ近所だ。駅に行く途中に見かけた。もし不登校の原因が中学時代にあるのなら、近所で知り合いに会うことを避けるために引きこもっていたのかもしれない。
「じゃあ、なんで柚木優乃を殺そうとしたの?」
 本と本の間から見える末永のやわっこい目が、刃物のように鋭く光った。
「柚木が、さりちゃんを見捨てたから」
 あまりの剣幕に息を呑む。再び襲いかかって来ることを想定して数歩後退りした。
「……どういうこと?」
「柚木は中学のときに部活でいじめられていた。同じ地理部だったさりちゃんは、それを見かねて先生に報告したんだ。だけどその報復に、今度はさりちゃんがいじめのターゲットになった。先生にバレないような陰湿な方法でいじめられた。柚木はそれを知っていたのに何もしなかった。自分は助けてもらったくせに」
 彼の話に心が痛んだ。柚木優乃の引きこもりの原因は間違いなくいじめだ。もしかしたら自分を助けてくれたさりちゃんという子を救うことができず、さらに深い闇を負ったのかもしれない。
 だけどそれは、命をもって償うべきことなのだろうか。庇ってくれた彼女には同情するけど、心の傷を負った柚木優乃がいじめた人たちに立ち向かうのは難しいだろう。
 それに、末永の行動にも違和感がある。
「なんであなたは、いじめの主犯ではなく柚木優乃を狙ったの?」
「それは――」
「彼女は直接いじめに加担したわけじゃない。それなのに命を狙うなんて、それこそ弱者をいたぶる行為じゃないの?」
「……主犯は引っ越して逃亡したんだよ。居場所はわからない」
 瞳に忌々しい光が宿る。
「さりちゃんは強がりだから、いじめのことは恋人の僕にも教えてくれなかった」
 恋人と聞いて、強い怨恨の合点がいった。でも、その感情が柚木優乃に向けられることには納得できない。
「よく考えて。柚木優乃は被害者だよ。傷つけていいはずがない。ううん、そもそも、傷つけていい人間なんて存在しない」
 強い気持ちで言い切ると、末永の表情が歪んだ。瞳が涙の膜に覆われている。
「でも……でも……」
「でも何?」
「でも……どうしたって、さりちゃんは戻ってこない」
「どういうこと?」
「さりちゃんは、屋上から飛び降りて死んだ」
 衝撃の事実を聞き、身体が硬直した。先程まで末永に毅然とした態度を取っていたが、彼に少なからず同情している自分がいる。 
「だから憎い。いじめの主犯も、柚木も、先生も、全員憎い。だって、さりちゃんには――」
 末永は感情を決壊させた。静かな図書館に彼の泣き声が響き渡る。
「もう会えない」
 その言葉が胸に突き刺さった。当たり前のことだけど、死んだらもう会えないのだ。そしてもしも私の生前の記憶が蘇ったとしたら、私も彼と同じように大切な人に会えない辛さに苛まれることになるだろう。
 末永への怒りにヒビが入っていく。憤怒を共感が上回ってしまうのは、他人事じゃないからだ。身につまされる思いになり、子どものように泣きじゃくる彼から視線を逸らした。
すると、ある本が目に留まった。
「ナンバンキセル……」
 草心が教えてくれた植物の写真が表紙を飾っており、思わず言葉が漏れた。しかし余計なことを口走ってしまったことを悔やみ、咄嗟に唇をかんだ。
「え、ナンバンキセルを知ってるの? 思い草のことだよね?」
 末永は途端に泣き止み、瞠目した。粘度の高い視線を感じる。執着心が強く、突然豹変する末永は、さっぱりとした吉永とは対照的だ。
 いや、もしかしたらこの兄弟は似ているのかもしれない。吉永の西宮マネージャーへの想いの強さや告白のタイミングの異常さには驚かされた。末永の行動が苛烈なだけで、本質的な性格は吉永に近しいような気がする。
「ねぇ、今の柚木は記憶がないんだよね?」
「あ、ああ、うん……」
 末永は一瞬で本棚から姿を消すと、私のすぐそばにやってきた。また襲われることを予期して身構えたが、彼は嬉々として私の両手を握ってきた。
「さりちゃん」
「……え?」
「さりちゃんなんだね」
 一体この人は何を言い出すのだろうか。
「僕知ってるんだよ。記憶がない人は憑依者の可能性が高いって。生前の記憶がないって」
「いや、えっと……」
「君、絶対さりちゃんだ。ナンバンキセルを知ってる人なんて滅多にいないよ」
 状況が呑み込めず、ただ呆然とすることしかできない。
「ねぇ、さりちゃん」
 勢いに気圧され、言葉が出ない。
「今から僕とデートしてほしい」

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